まあ、自然の巡り合わせと申しましょうか、毎年同じくこの時期に思うことではあるのですけれど、桜が咲くと決まって寒くなる。いわゆる「花冷え」というやつですかね。季節が冬から春に向けて、少しずつ少しずつ暖かさを蓄積していった結果として、桜が開花するのですよね。一説には、2月1日以降の気温を積算して600度に到達すると桜は開花するのであるとか。どれほどの信憑性があるのかは分かりませんけれど、今年2023年は早くからかなり暖かい日があったなと思えば、桜はやっぱり早めに咲く…となれば、全く関連していないこともないのでしょうけれど。

 

一方で、桜が咲くと決まって雨が降るとも言えましょうか。この冬は相当に雨の日が少なかったように思いますけれど、桜の開花を待っていたように雨模様が続いているというのは、桜は咲いたらすぐ散ってもらいたいといった、自然の側の事情でもあるのでしょうかねえ。

 

とまれ、桜(とりわけソメイヨシノの類でしょうけれど)は散り際が見事、つまりは潔いのだという点をつかまえて、「花は桜木、人は武士」なんつう言い回しもあったりしますですね(むしろ、ある世代にとっては「花は桜木、男は岩鬼」というフレーズが馴染んでもいましょうなあ、笑)。ちなみに、といってこのほどぐぐっていて気付いたですが、「花は桜木、人は武士」と言う言葉はあの!一休さんこと臨済僧の一休宗純なのだとか。でもって、「花は桜木、人は武士、柱は檜、魚は鯛…」と続くようですが、桜と武士の対句で終わらないと、なんだか締まりが悪いような気もするところです。

 

ところで、武士の死に際に潔さを求める感覚は『葉隠』に出てくる「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」ともつながってくるような。いささか言葉の上っ面だけで想像しているところもありますけれど、武士に独特のメメント・モリがあったのかもしれんと思ったりするところです。

 

が、だからといって…と考えてしまうことがないではない。彰義隊の関係から杉浦日向子の『合葬』を読んだわけですが、これが全集本の一冊に収録されていた関係上、他の作品と抱き合わせになっていたのですな。『本朝大義考 吉良供養 検証・当夜之吉良邸』という一作でありまして、タイトルからなんとなく想像が付くであろうように、赤穂事件を扱ったものでして。

 

この事件が後の世に長く伝わるのは偏に歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の存在あらばこそでしょうか。とにもかくにも忠義を尽くした四十七士はあっぱれ!、対する敵役の吉良はひたすらに悪党に描かれるわけで、これもまあ相当以上にワンサイドな見方ではあるわけですが、それがもはや動かしようのない一般化した見方にもなっていようかと。そこへもってきて、赤穂事件に関わる漫画を描くときに、作者はその冒頭にこんな言葉を置いているのですよね。

「大儀」が殊更物々しく持出される時人が多勢死ぬ。
快挙とも義挙ともはた壮挙とも云われる義士の討入はまぎれもない惨事だと思う。 ヒナコ

赤穂事件に関わる数々の物語、芝居、映画やドラマはおよそ全て、いよいよもって討入の場面となりますと「待ってましたぁ!」というくらいに、最大のクライマックス・シーンであったりするところながら、杉浦日向子はまさにその討入のシーンを描きながら、倒されていく吉良側の侍をひとりひとり数え上げ、それぞれがどんな手傷を負ったか、どんな死にざまであったかを見せていくのでありますよ。

 

かつてTVにたくさんあった時代劇ドラマ、例えば『水戸黄門』あたりを思い出しても、最後の方で黄門様が悪者どもの根城に乗り込んでいって、悪党の元締め(いわゆる「御代官様」の類ですな)を成敗する前段階に、その手下どもをばったばったと切り伏せるシーンが必ず出てきます。自らの主筋がどれほどの悪行三昧であったか、下っ端の侍たちは知らないわけで、そこへへんなじじいの一行が乗り込んできたのですから、「成敗せよ」との下命で黄門方に斬りかかるのは必定ですなあ。見方によっては何と忠義に篤い侍たちであろうかとも。

 

倒される下っ端に着目すれば、主筋のために命を投げ打ち、潔く?散っていった武士の鑑ということにもなるのでしょうか。赤穂事件の際、吉良邸で倒された下っ端たちもまた同様と言えるのでもありましょかね。ただ、それはそれとしても起こった事件を見れば「まぎれもない惨事」であると、これまで余り言及されることは無かったのではなかろうかと。

 

仮に赤穂事件に義があるとして、仇討ち対象の吉良上野介を狙うのは分かりますが、その手段として下っ端の大量殺戮を伴うことには何の思いも無かったのでしょうかね。無いからできたわけですが。そも目的は何であるかに思いを致して、そのための手段として実行する側はとかく「やむを得ない」で片付けてしまうのかもしれませんけれど、客観的にみますとこの「やむを得ない」は、「ごめんで済んだら警察はいらない」というくらいにしょうもないことのようにも思えてきたりするところです。当事者の側はもはや冷静な判断ができなくなっている…とは、近頃の戦争もまた同じなのでしょう、おそらく。

 

やっぱり、歴史に学ぶことはあって、何からどう学ぶか、学び方が最大の問題であるなと思ったものでありますよ。とまあ、桜の話からつれづれに、何とか落ち着くところに落ち着きましたです、はい。