いやはや酷い話もあったものですなあ…とは映画のお話ですけれどね。映画『パーフェクト・ケア』は裁判所に認められた法定後見人という立場を濫用、悪用して 高齢者の資産を好き勝手にしたり(本人のためと施設に放り込み、費用を払うためとして家や家財をうっぱらってしまったり)するビジネスが描かれているのですなあ。

 

 

ターゲットとした老齢女性ジェニファー(ダイアン・ウィースト!)が訳ありのマフィア絡みであったことから、高齢者を意のままに操ってぼろ儲けをする後見人ビジネスに勤しむマーラ(ロザムンド・パイク)は命を狙われて、追いつ追われつのアクションが展開する後半はともかく(といって、見どころなのでしょうけれど)、後見人ビジネスの実際といいますか、そちらの方こそ「酷い話…」であることの由縁です。

 

高齢者(に限りませんが)が認知症などにより、自らがさまざまな手続きなどを採れなくなったり、わけの分からない買物や契約をしてしまったりすることなど、そうしたトラブルを抑止するために、つまりは法律によってよかれと考えられる制度として後見人はあるわけですけれど、資産あるターゲットを見つけては医師と結託して裁判所を信用させ、後見人たる立場が認定されますと、本人は施設に閉じ込められて、マーラの側はやりたい放題なわけですね。

 

タイトルの『パーフェクト・ケア』はカタカナ語ですが邦題でありますね。後見人ビジネスを行う者としてはそれこそ「完全なお世話をいたします」ということでしょう。日本には「そんなことをしたら“立派な”泥棒だ」といった言い回しがありますけれど、言うまでも無く泥棒が立派なのではなくして、「誰がどう見ても明らかに」といった意味合いを揶揄的に、本来は全く裏返しの意味である「立派な」に込めて言っているわけで、そうした日本人の語感がこの映画のタイトルに「パーフェクト(完全な)」という言葉を当てたのでもありましょうね。ちなみに原題は「I care a lot」で、こちらで「a lot」とある部分が見れば分かるように実は「too much」に過ぎるものなのですから、感覚としては彼我に違いはないのでしょう。

 

ともあれ、この話の前提となる後見人制度ですけれど、アメリカと日本とでどの程度同じなのか違うのか、そのあたりは詳しくありませんですが、「成年後見制度」の利用を促す(もちろん必要に応じて、ですが)家庭裁判所のパンフレットによりますと、親族等が申し立てて後見人となる「任意後見」の他にやはり「法定後見」を裁判所が立てるという制度もあるようで。

 

日本の場合、申し立てできるのは四親等内の親族などの他には市区町村長ということのようですので、家裁に持ち込む前段階の手続きが大変そう。されば、映画で描かれたように、被後見対象の人に親族がいるも介護等を顧みないからと、いつの間にか法定後見人が立てられてしまっていた…てなことまでは おそらく起こらないのではなかろうかと(もっとも映画は誇張してあって、描かれるところがアメリカの制度実態とは思いませんが)。

 

一方で、他人による後見人ビジネスの可能性は低いにせよ、親族という立場であっても必ずしも良心的な制度利用をするばかりでもないのかも。あまり考えたくないことですし、さしたる財産も無い者には想像もつきにくいことですけれど、親族内でマーラのような思惑が巡ることはあり得ないではないのでしょうなあ。それだから、という理由ばかりではないものの、「誰を成年後見人等に選任するかという家庭裁判所の判断については、不服申立てをすることはできません」とされているのですな。親族の誰かが、自ら後見人になろうと考えて申立てたところが、裁判所によって全くの別人(例えば弁護士や社会福祉士など)が選任されることなっても、決定には一切文句が言えないということで。

 

とまあ、映画との関わりから後見制度をやぶにらみした感がありますけれど、人生100年とも言われるような世の中になって、その長い人生のいつまでをしっかり自分の判断なり、自分の行動で対処していけるかは全くもって人それぞれでありますね。それだけに、後見制度の利用というのは結構なリアリティーのあるものになってきているのかもしれません。

 

個人的に他人事でないという心構えは持っていた方がいいのかもと思ったものでありますよ。月一回の通院介助に出向くくらいで済んでいるのは今のうちだけかもしれませんしね。ということで、折しも明日(3/16)は父親の通院日でして、例によって両親のところへ様子見に出かけますので一日お休みを頂戴し、再びお目にかかるのは明後日(3/17)ということに。ではでは。