1月は東京都で言うところの、コロナ療養後の「自主的な感染予防行動の 徹底期間」とやらに該当していたので出かけられなかった読響の演奏会。ようやっと2月が巡ってきたものですので、池袋の東京芸術劇場へと出かけてきたのでありますよ。
エリアス・グランディという若い指揮者(といっても、1980年生まれらしいので40代にはなるわけですが、何せ指揮の世界には長老が多く…)が登場して、メインにブラームスの交響曲第1番という王道シンフォニーをたっぷりと。ここで「たっぷりと」というのは文字通りそういう演奏でもあったわけでして、重々しいテンポでもってスケール大きく構築しておりましたなあ。ただ、そのスケール感に見合う「何か」が足りないような…とは、きっとこれから深めて行ってくれるのでもあろうかと思ったものです。
とまあ、かようなシンフォニーに先立って演奏されましたのは、メゾ・ソプラノのアンナ・ルチア・リヒターをソリストに迎えたモーツァルトの序曲&アリア集でして、これは実によかったですなあ。
こちらはこちらで1990年生まれだそうですから、本当に若いのですけれど、元はソプラノであったとか。まあ、声楽の世界では何よりソプラノが華でしょうから、目指すなら…ということもでもありましょう。さりながら、すでにしてメゾに転向とは変わり身が速いというか諦めがいいというか。でも、それが奏功したのではありませんですかね。
声や歌唱のことには詳しくないので…といって見てくれの話をするのもどうかとは思いますですが、写真で見る限り清楚な美人さんに写っていますけれど、実際にはもそっとあっけらかんとした印象でして、オペラにメゾの役どころとしてよくあるズボン役、それもコメディ系がよく似合いそうな雰囲気でありましたですよ。
類推としてコメディ映画に登場するボーイッシュなコメディエンヌとして、ひと頃(『めぐり逢えたら』とか『ユー・ガット・メール』あたりの頃)のメグ・ライアンを思い出したりも。そんな思いに捉われますと、1曲歌い終わって袖に引っ込むリヒターの歩き方が何ともボーイッシュなメグ・ライアン歩き(だぶっとしたズボンでもって外股歩きで立ち去るシーンが思い出される)を彷彿させるところなのでありました。もっとも舞台衣装としてはロング・ドレスですので、足元まで見えるわけではないのですけれど。
まあ、そんな印象とともに、モーツァルト『フィガロの結婚』からケルビーノのアリアを歌うところは馴染む、馴染む。実際にオペラの舞台で見たいと思ってしまうところなのでありますよ。
ところで、妙にリヒターに肩入れしているようではありますけれど、先に声楽の華はソプラノと言ってそのこと自体に認識の違いは無かろうと思うところながら、個人的には(歌声によってはですが)ソプラノの生の歌声が耳に刺激的に過ぎることもありまして、元来メゾ押しであったりもするのですけれどね。
そんなこともあって耳に馴染みやすいメゾの歌声、舞台姿と併せてアンナ・ルチア・リヒターの歌を楽しく聴いてきたわけですが、その後も「もそっとメゾを」と帰宅してから、ジョイス・ディドナートの「Diva Divo」を取り出して聴いておる次第。メゾの持ち役の幅広さを改めて思う1枚でありますよ。
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