さて、焼津の話がひと段落して静岡市のお話です。でかけたのが昨2022年12月のあたまでして、そのタイミングでNHK『ブラタモリ』が静岡編を放送することになっており、内容がかぶるのはなんだなあと静岡市の方の見聞を後回しで記すことにしたような次第でありましたよ。

 

その後になって(録画していた)『ブラタモリ』静岡編を見ましたけれど、やっぱりといいますか、オープニングは駿府城公園でしたなあ。ま、時期的に年明けから始まる(すでに年は改まってすでに始まっているわけですが)大河ドラマ『どうする家康』の番宣的な意味合いがあったでしょうしね。ともあれ、番組で大写しにされていたのが、こちらの徳川家康像でありますね。

 

 

駿府城本丸跡という石柱とともにある、大御所時代、晩年の家康の姿ですけれど、タモリが「ちゃんと鷹狩りの手袋している」と感心していたのが、こちらということで。しかしまあ、あまりに堂々たる姿かたちは盛りすぎだろうなあとは思うところですが。

 

でもって、像の後ろ側に巡らされた囲いの向こうでは駿府城天守台の発掘が継続中でして、番組では発掘現場を覗きに向かったわけですが、発掘の話はちと先に送りまして、ここでは家康像の右手にある樹木に注目しておこうかと。以前、2014年に訪ねたときにはおよそ気に掛けていなかったのは、出かけた季節のせいかもしれませんですね。春先には青葉でしかなかったところ、12月あたまの時期、果実がたわわに実っておりまして。

 

 

説明書きに曰く「家康公手植のミカン」であるということですけれど、「そうかあ、家康が自分でねえ…」というところに感心しておるのではなくして、静岡がミカンの産地として知られるようになる由来のようなあたりでしょうか。解説板にはこのようにありました。

徳川家康公が将軍職を退いて駿府城に隠居のおり、紀州(和歌山県)より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植したものと伝えられている。
このミカンは当地の方言でホンミカンといわれており、鎌倉時代に中国から入った紀州ミカン(コミカン)の一種で、香の強い、種のある小形の実を結ぶ。静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なものである。

紀州は後に徳川御三家のひとつになりますので関わりが深いのは当然とも思うところながら、家康大御所時代の紀州は浅野家(後に広島藩主、赤穂浅野家の本家筋ですな)の所領だったわけで、そうなると民衆レベルでの紀州と駿河の往来にも思いを巡らすことになろうかと。昔むかしは東海道という陸路以上に遠州灘を越えて行き来する船が物流の動脈であったわけですし。

 

後には紀州から房総半島を回り込んだ銚子にまで醤油造りがもたらされたように、それより手前の三浦半島、伊豆半島、そして駿河の沿岸には西から船がたくさん着いていたことでしょう。そういえば、焼津漁港の船溜まり近くに「船玉浦神社(ふなだまさん)」という小さなお社が祀られていましたけれど、「江戸時代に和歌山県の音無川上流にある船霊神社から分祀されたといわれている」とのこと。航海の安全祈願ということでしたら、金毘羅宮とか住吉大社とか、他にもありそうなものですが、紀州和歌山からの勧請なのですものね。

 

ところで、静岡市の駿府城公園の片隅にひっそりと、こんな石碑もあるのですなあ。楕円の形でのっかっているのはやっぱりミカンでありましょう。

 

 

台座には「みかんの青島温州生みの親 青島平十翁之像」と刻まれています。先に静岡のミカンは紀州からもたらされたことに触れましたですが、実は現在一般にミカンと見られている、温州ミカンは家康手植のミカンとは異なる種類なのだとか。碑文では青島平十という人が生みの親とありますけれど、実際には青島さんのミカン園で見つかった変異種であったということなのですなあ。とまれ、この青島温州ミカンでもって、静岡は和歌山、愛媛と並ぶミカンの名産地となっていったようでありますよ。

 

とまあ、そんなあたりの語り起こしで始めた静岡市の見聞。続いては家康像の裏側で展開している駿府城天守台発掘のお話へと移ってまいります。