韓国映画の『王の願いーハングルの始まり』を見たのでありますよ。朝鮮半島では長らく中国由来の「漢字」を当てはめて使っていた…とは、日本もまた、ではありますけれど、早い段階で漢字からひらがな、カタカナを生み出して、日本語の表記として使いやすくする工夫がありましたですね。ですが、朝鮮半島では大陸と地続きで、なまじ中国王朝の影響力が大きいだけに独自の文字を持つということそのものが中国への背信のようにも考えられていたようですなあ。

 

 

李氏朝鮮の第四代国王・世宗王(ソン・ガンホ)は民が普通に読み書きできる文字を作ることにしますけれど、朝廷を構成する上流者たちに言わせますと、誰もが妙に知恵を付けると国の乱れも元であるといった発想があったようで。要するに一般民衆を無知蒙昧に押し込めておいて、国の安寧が得られるということのようで。

 

同時にそこには李氏朝鮮は儒教の国であって、孔子様の教えが漢文であることからすれば、それを直接的に理解するにはどうしたって漢字使用が大前提であるとも。裏側には、儒教の国を標榜するがために仏教が排斥されていたということも。そんなことがあったのですなあと、改めて。

 

さりながら、国王の文字作りに手を貸すのは仏教の僧たちなのですな。なんとなれば、仏教僧はサンスクリット語の文字(梵字といっていいのでしょうか)とそこから派生したチベット文字など、表意文字である漢字とはことなる構造の表音文字に通じていたからでもあって。

 

朝鮮半島の言葉には詳しくありませんけれど、どうやら「音」に対するこだわりが日本よりも強くあったようで、自国の言葉の表記には表音文字が適当であると考えていたのですな。日本の場合、ひらがな、カタカナはいわば表音文字ということになりますけれど、発音上、母音と子音を区分けて、その組み合わせの多様さを文字で表すということはしてこなかったような。五十音の表に示す以上の「音」をあまりく分ける必要がなかったのかもしれませんですね。

 

もっともそれで表すことのできない、例えば「鼻濁音」のような「音」を直接的に書き表す文字は無いわけですが、その結果、ものすごく困るということも無い一方で、鼻濁音の使用自体が忘れさられていくという懸念は無きにしもあらず、とは思うところです。

 

ですが、表音文字だけというのも、今となっては考えにくいことでもありましょうかね。同音異義語がたくさんある中では、書き言葉としての漢字の使用は意を呈した文字なだけに、読む上での利便性は非常に高い気がしますし。

 

とまあ、あれこれ思うところはありますけれど、ともかくよくまあ新しい文字を作ったものであるなとは思いますですね。ひらがな、カタカナが漢字由来であることからして、日本の加工技術(?)の妙を思ったりもするところですけれど、ハングルはまったくのオリジナルですものね。

 

映画では文字が作られたその後にあまり触れておりませんけれど、文化を独占したい者たちが多くいた中で新たな文字を普及、定着させるのにまた相当な労力が必要だったのではと思うところです。密かに仏教信仰者であった王妃が宮廷の女官たちを通じて、新たな文字をじわじわ広めたようにも窺えるところはありますが、もしハングルの普及が女性を通じた草の根的な展開の賜物であったとすると、日本でもまたひらがなの普及といったあたりを思い浮かべてもしまいますですね。