さてと、静岡焼津で見聞したところを記すのも宙ぶらりんになってしまっておりますが、ともあれ、小泉八雲と焼津の関わりとを振り返りつつ訪ねたのは焼津小泉八雲記念館、市の文化センターなどが入る大きな建物の一角にありましたですよ。入口脇のモニュメントには例によって、八雲の「横顔」のレリーフが埋め込まれておりました。館内にも大きく掲げられた、この横顔ですな。

 

 

とりあえず右手側の常設展示を覗いてみることに。入館無料という施設だけあって、大きな展示室ではありませんけれど、そこには八雲と焼津の関わりを語り伝える資料や解説パネルがたくさん展示されておりましたよ。いちばんの注目資料はやはり八雲の手紙になりましょうか。たどたどしいカタカナ書きの日本語からは反って家族思いの温かみが感じられたりもするような気がしたものです。

 

 

基本的に日本語の読み書きが堪能ではなかった八雲ながら、日本人たらんという強い意識で「へるん言葉」を駆使して書き綴ったわけですが、その日本人意識は時に行き過ぎてオーバーフローしたりする面があったかもしれませんですね。八雲に日本で過ごした時代、日露戦争が起こった際には日本寄りの論調で戦争記事を英語メディアに発信したりしますし、焼津滞在中、日本海軍がロシアのウラジオ艦隊を撃破との報に接すると、寄宿先の山口乙吉の店で売っている全てのラムネの栓を抜いて、近所中に戦勝を祝すふるまいラムネをするといったはしゃぎようも見せたのであると。

 

そんな前のめりさを見せる一方で、八雲は日本人の精神世界に深く分け入ったことで知られますですね。時あたかも明治、近代化の世にあっては、開国前の日本を全否定して欧化に邁進する人たちがたくさん現れるわけで、ともすると日本人自身、自らのルーツ的なるところから目をそむけがちにもなった中で、です。このことはお雇い外国人たちももっぱら劣っている東洋人の蒙を啓きに来たとばかり、欧米偏重の姿勢でいた人たちが数多いたようで。

 

松江中学、熊本の五高、そして東京の帝大で教鞭をとる中、そしていっとき神戸で特派員生活を送る中、常に八雲も身の回りには露骨な欧米偏重意識を振りかざす人々(何も外国人に限らず…)に接するところとなって、さぞかしうんざりしていたようでありますね。焼津の素朴な人たちとのふれあいは、さぞや癒しにもなったようでありますよ。

 

ところで、日本の文化、精神性の独自性に八雲が説くのを受け止めた日本人の中には、八雲が思い描いたところと異なる受け止め方をする向きのあったような。小さな展示スペースながら焼津小泉八雲記念館にあった企画展で、次にはそのあたりを振り返っておこうと思うところです。タイトルは「HOURAI 八雲と朔太郎が見た日本」でありました。