いやはやなんとも、一年の月日が流れるのは実に速いものであるなあとしみじみ…。取り分け完全退職して迎えた日々は、通い付けの歯医者さん曰く「3か月くらいはいいけれど、その後はすることが無くて…という友人が多い」てなことを聞かされたのに対して、思いがけずもあっという間に過ぎ去っていったのでありますよ。ともあれ、また一年が経過した区切りのように、例によってこの時期、「第九」の演奏会@東京芸術劇場に行ってきたのでありました。
「第九」を聴かないと年が越せない…てな思いを、いささかも持ち合わせてはいないのでして、年間プログラムに組み込まれているから聴きに行くといった感じではあります。ですので、かつては「12月は何だって第九ばかりのプログラムになってしまうんだ!」なとど文句たれになったこともありました(若気の至り?)ですが、まあ、同じ演目とはいえ演奏者が変われば印象も変わるというあたりをお楽しみとするくらいに老成してきてはおりますよ(笑)。
で、2022年を締める読響「第九」の指揮には鈴木優人が登場したのですな。この方は活躍の根っこがバッハ・コレギウム・ジャパンにあったりするわけで、いわゆる古楽の人と思うわけですが、古楽から出でて古典派、ロマン派、さらには後期ロマン派、現代音楽まで演奏対象の範囲を広げるケースがあるのは、先んじてアルノンクールほかたくさんおりますので、今さら珍しいこともでもない。ではありますが、演奏のイメージとしては、快速で駆け抜けるテンポ感やかなりエッヂの立った切り口といったところでありまして、ある種、独自性が際立つような演奏を想像するのですよね。
ここでの演奏は予想するほどに尖ったものではありませんでしたが、なんかこう、非常に見透しのいいという印象がありましたですね。普段聴きなれた「第九」演奏からは聴こえてこない音がするといいますか。ひとつには全体のバランスの中で楽器の浮き立たせ方でしょうし、もうひとつはオケの配置による聴こえ方の点でしょうかね。
ステージ下手に第一ヴァイオリンとチェロ、その奥にコントラバス、そして上手側に第2ヴァイオリンとヴィオラが配される、古典的な対向配置でもって、ここからほぼほぼ?ノンヴィブラートで音が流れ出すわけですが、時折ヴィオラが浮き立つように聴こえてくるのはとても新鮮でありましたよ。そして、パーカッションがステージ最奥部ではなしに(合唱との関係もありましょう)、上手側のステージ際にまとめて置かれていたことからシンバルやらトライアングルやら聴こえやすくなっていたのもまた。
でもってその合唱ですけれど、合唱団やソリストがどのタイミングでステージ上に姿を現すのかも公演ごとに差異がありますね。最初から舞台に乗りっぱなしという場合もあれば、第二楽章が終ったところで登場するとか。今回は第二楽章の終わりはおろか第三楽章の終わりまでもスルーして、最終楽章が始まってしまった!となりますと、見ている側がいったいいつ現れるものやらと気が気でなくなったりも。
果たしてバリトンソロが高らかに歌い出す以前、一度オケが歓喜の歌のメロディーを全奏しているさなか、その音量に移動の際に(歩いていくノイズがマスキングされるからでしょうなあ)ぞろぞろと登場したきたわけです。ですので、それぞれの配置にスタンバった途端に歌い出すという演出であったわけですが、心配性の者にはひやひやしたりもするところであろうかと。見ている側としてもですが、歌う側としてもなかなかに平穏を保つのが難しいタイミングでもあったろうかと思うところです。とまれ、そんなこんなを含めて、風通しよく新鮮な演奏を楽しんでまいった次第でありますよ。
ところで、この日は「第九」演奏に先立って鈴木優人のオルガン独奏があったのですね。前座的ながら15分ほどですので、プログラム前半の扱いにもなりましょうか。尺からいって、バッハのパッサカリアとフーガ ハ短調あたりだといいなと勝手に思っていましたですが、この日(12/17)の演奏はバッハの前奏曲とフーガ ト長調 BWV541と「ベツレヘムに生まれし幼い子」BWV603であった…とは、後から読響HPに掲載あったのを見たのですけれど。全部で6回のオルガン演奏のある「第九」公演ではこの後(12/20)のサントリーホールではパッサカリアとフーガが取り上げられるようでありますね。
「第九」の演奏にあたっては、その前に何かしらの曲を演奏するのかしないのか、演奏するのであれば何の曲であるのか。この辺もまた工夫のしどころでしょうけれど、オルガン独奏をもってくるというプログラミングも今回指揮者がオルガンやチェンバロの独奏者である鈴木優人らしさを出した企画で、よきかなと思ったものでありますよ。
満足感を抱きつつ、コンサートホールをあとにすれば、池袋の巷は忘年会気分の人々で溢れ返っており。これがコロナとともにある年の瀬ということでもありましょうかね…。