「ビジネスエリート必読書!」とは、いかにも東洋経済新報社らしいというか何というか。それにしてももっぱらビジネス書を手掛けていると思しき東洋経済がどうして?…と思う『教養としての神道』、図書館の新着コーナーで見かけたのでありましたよ。

 

 

「はじめに」に宗教学者の著者曰く「一般のビジネスパーソンや大学生、さらには高校生にも理解できるような平明な論述を心がけた…」とありますのは、確かに努力の跡が窺われるようにも思うところながら、神道とかそのあたりのことに俄か興味を抱きつつある者(かくいう自分のことでして)でも些か置いてけぼり感を抱くところもあり、平明にというのがいかに難しいことであるかとは、ここでもまた。

 

世の中のあれこれに通ずるには「教養」というリテラシーが有用でしょうけれど、そも教養を獲得するにもまたリテラシーが必要になる…となれば、なんだか堂々巡りのような気にもなってこようかと思ったり。ですが、そんなことはともかくとして、神道のお話ということで。

 

「神道」と聞けば、それこそ神代の昔から連綿と続く…てなふうに思ってしまいそう。さりながら、明治になって強制的に神仏分離が行われるまで、実に実に長らく神仏習合という独自形態でもって信仰されてきた…というくらいはつかまえているものの、縄文時代に土偶を用いて祭祀を行ったり、弥生時代から古墳時代には銅鐸を鳴らして祈りを捧げたり…ということが、「神道」なるものとどれほど関わっているのか。そんなあたりを気に掛けてみることはおよそ無かったのでありますよ。

 

神話とみるのか、歴史的叙述と見るのか、『古事記』や『日本書紀』に書かれていることは、それが書かれる以前の日本の歴史を伝えようとしていますけれど、要するに飛鳥時代、具体的には天武天皇・持統天皇に始まるあたりで、大和にあって日本を治める為政者の系譜の正統性、それが天孫降臨の末裔であるという権威付けのために作り上げられた壮大な物語でもあるわけですね。神様に連なるわけですから祭祀の長としての姿も求められましょう、そこで天皇が主宰する祭祀の形、広くあまねくこれこそがという形を「神道」というものの中に込めたということであろうかと。

 

ですから、こうした祭祀で祈り求められるものは五穀豊穣とか疫病平癒とか国家安寧とか、おそらくは個々人の属人的な願い事とは違うものだったことでしょう。その点でいえば、個々人にご利益をもたらすかどうかは別として、それぞれの心の平穏と結びついていると思しき、いわゆるその後の宗教とは異なるものだったのかもしれません。

 

そうしたところが昔々にはあって、明治政府が神仏分離によって、天皇と関わりある神道の優位性を打ち出した際、神道は宗教ではない。なんとなれば祭祀であるからといった一般人には付いていきにくいことを言い出したようで。良し悪しはともかく、江戸期にはさまざまなお参り(中には相当に物見遊山的なものがあるにせよ)が逸りますけれど、庶民にとっての願い事は極めて個人的なものが多くあったはずで、本来的であるかどうかはともかくも神社(そして仏閣も)はそれを受け止めてきていた長い歴史がありますから、誰しも戸惑いは隠せないことであったでしょうねえ。天皇の祭祀と関わる伊勢神宮あたりはともかくも、それ以外の神社、それこそ地域地域に勧請されたお社などは、唐突に伊勢神宮を頂点とする序列の中に置かれて「宗教」ではありませんよ、「祭祀」の場ですと言われても…。

 

このあたり、神仏分離に併せて廃仏毀釈という乱暴なこともあって、もっぱらお寺の苦難というばかりの印象でしたけれど、神社は神社で困った感はぬぐえないものでもあったような。伊勢を頂点とするヒエラルキーでがちっとした制度にまとめるみたいな話に、出雲大社が楯突いたとは宜なるかなとも思ったところです。

 

だいたいヤマト王権確立以前、日本というか倭国の中では地域ごとに諸勢力乱立状態であって、かかる地域ごとそれぞれに古くからの信仰形態があったろうと。伊勢神宮という大和朝廷公認?のお社ができる以前にも、出雲大社や宗像神社、はたまた諏訪大社といった、地域で有力な信仰拠点があったわけでしょうから。それを、飛鳥時代の『古事記』や『日本書紀』による神話的記述でもって、地域ごと個別にあった事象を全てはヤマトにつながるように話を作り上げたものの、それよりもさらに昔からの伝承なりが各地に生き続けていたりもするでしょうから、無理に無理を重ね続けているようにも思うところです。

 

日の出に心改まる心地がする、山や岩、巨木など大きなものに畏敬の念を抱くなどなどのことは、おそらく日本人だけの心性ではなくして、人の中に残る古い古い記憶なのではないですかね。そこから導かれるのは八百万の神々、そうした神様が本当にいるのかとかそういうことではなくして、神羅万象のさまざまに対して自然と畏敬の念(神々しいとかいう点で)抱くことなのではないかなと。

 

人は(と、それこそ他人(ひと)のことを言えた義理ではありませんですが)とかく個人的願望をあれこれ持っていて、それを神頼み(仏相手のこともありますが)することもありますね。ただ、そこに神社仏閣という施設、あるいは神道・仏教という宗教形態を介するかどうかというのは、元々別の話なのではと思ったりもしてきておりますよ。

 

あたかも長い長い歴史の果てにあると考えてしまいがちな神道や神社ですけれど、実態としてはおよそ定まっていないといいますか。まあ、キリスト教なども含めて儀式の定められた形などというものは、組織的に作り上げられたものであって、こと八百万の神々といったところに思いを馳せるならば祈りのありようは勝手お構いなしといえましょうか。「宗教」と聞くだけで(それが新興なのか、古来からあるのかに関わらず)いささか胡散臭く考えてしまっておりましたけれど、「こうでなくてはいけん」とか「導いてあげますよ」とかいう何らかの介在に対する胡散臭さであって、森羅万象に対して神々しさを感じたりする、そのこと自体は分かるような気がする…とは思ったものでありますよ。