大阪・高槻市のセントラルパークを標榜する?安満遺跡公園。再現した環濠で囲ったかつての弥生集落跡はもっぱら芝地となっておりますけれど、その中にいくつかの現代の、というにはいささか古風な建物がいくつか建てられているのでありますよ。

 

 

歴史拠点といわれるエリアでいちばん大きな建物はこちらになりますが、「昭和初期に建築された白壁と赤い屋根が印象的な建物で大阪府の近代化遺産にも選ばれています」(安満遺跡公園HP)という歴史的建造物は「旧京都大学付属高槻農場」にあったものを再利用したとか。パッと見、レストランとして使われているようにしか見えなかったので、うっかり見過ごしてしまったところながら、中には京大農場の歴史に関する展示もあった…と、後から気付いた次第。とまれ、安満遺跡はかつての京大農場から発掘されたのですなあ。今の京大農場は京都府木津川にあるそうです。

 

 

で、この本館のお隣にある小ぢんまりした建物、これも風情が似通っていますので、やはり京大農場で使われていたのでしょうか、こちらが安満遺跡に関わる展示室ということになっておりましたよ。取り敢えず中へ入ってみます。

 

 

内部は長い廊下の、左側が「シアター」(といっても小さなものですが)、右側が「ギャラリー」になっていて、シアター内では正面はもとより左右の壁面や床面にも及ぶ形の映像展示があるようす。覗いてみますと、そのサラウンド的な映像にくらくらしてきたものですから、他に誰もいないのをよいことに床にしゃがみこんで眺めておりましたですよ。お訪ねになる方はお気をつけあそばせ。

 

 

上映プログラムは2本の交互上映(いずれも2分ほど)と「安満ムラのはじまり~弥生人がやってきた」、「弥生人のパートナー」というもの。とかく縄文から弥生という時代区分においては、ある日突然にして縄文が消え去り、弥生が始まったかのように漠然と考えてしまいますが(といって、冷静に考えればそんなことはあり得ないわけで)、実のところは縄文人と弥生人の混淆が徐々に進んでいったのですよね。稲作とその貯蔵という食料確保の優位性が、その当時としては弥生の文化に傾いていくのではありましょうけれど。一本目のお話はそんな感じです。シアター外の解説パネルにはこんな説明がありましたですよ。

考古学的には、両者(縄文人と弥生人)は交流して、縄文文化の伝統に大陸から伝わった稲作や青銅・鉄の金属器が加わり、米食をはじめ現在につながる生活様式の基盤となる、弥生文化が華開いたと考えられます。

 

二本目の方は「弥生人のパートナー」とありますが、これってシアターの入り口に絵が描かれてある「犬」のことだったのですなあ。縄文期に狩猟犬であったところからは役割を変えたでしょうけれど、蓄蔵する食糧を環濠や高床式建物を作って野生動物などから守る中では番犬という役割があったかも。さりながら、全国の弥生遺跡では犬の骨が多数発見されていて(これもまた大陸由来のようですが)犬は食用だったのではないかとも言われているとか。そうなると、パートナーと言ってもなあ…という気がしてきてしまうものの、これは現代感覚なのでありましょうかね。

 

 

さてと、展示ギャラリーの方に目を転じますと、大きなスペースで発掘された環濠の再現が設えてありました。中に入っていけるようになっておりまして、これがなんと、外で見た環濠よりもずっと深さがあるのですな。地層断面は発掘時に剝ぎ取ったものであるとか。

 

 

ところで、環濠の存在をあたかも動物除けのように書いてしまいましたですがそれ以外にもいくつか説はあるようでして、貯木場にしていたのではという説も。確かに農耕を営むようになって木製品の使用は増えたでしょうからねえ。また、外敵は動物ばかりでなくして、ムラどうしの争いに備えた防御であるとも。財(食糧)を貯えるようになって早速始まりますかあ…という感じでもあろうかと。

 

 

と、こちらは数々の出土品(といってもむき出しで触れる状態なのでレプリカでしょう)を展示するコーナーということに。片隅にはいかにも弥生!と思しき小さな銅鐸が展示されておりましたよ。ですが、これも解説を読んでよく見てみると、「そうであるか…」と。

 

 

弥生時代の祭祀に用いられたと思われる銅鐸ですけれど、「表面には、楕円環や波形の文様がみられます。縄文と弥生のコラボ!という研究者もいます」ということが解説パネルに。てなことで、歴史は連続していることを忘れていたわけではないですけれど、改めて縄文から弥生への移行のありように思いを馳せることになった安満遺跡の展示なのでありました。