台風15号の通過でじょぼじょぼと雨の降る中、東京・池袋の東京芸術劇場へ。取り敢えず電車には影響が出てなさそうでしたので、読響の演奏会に出かけたのでありましたよ。
曲目はグリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』、そしてリムスキー=コルサコフの交響組曲『シェエラザード』の3曲。快速で疾走するメロディー、技巧を尽くしたテクニック、重厚なるオケの響きと、三者三様に力演が繰り広げられたわけですけれど、気付いてみれば…という以前にすぐと気付くのは、「ああ、オール・ロシア・プログラムであるな…」ということでしょうか。
ロシアのウクライナ侵攻以来さざまなところでロシアを嫌う動きがあったりして、音楽会でもロシア作品が排除されたり、ロシアの演奏家が敬遠されたりもしたようですが、今はいくらか落ち着きを取り戻しているでしょうか。取り分けロシアの作曲家による作品については、ロシアの現体制とは関わりないもはや歴史的産物になってもいましょうから、結びつけることは「坊主憎けりゃ袈裟まで」のヘイト感でもあったのでしょう。
ではありますが、こういう時だからこそひとつひとつの作品にもそれぞれに複雑な(と今では思えるような)事情を抱えていたりもすることに目を向けること自体は悪いことではないような。
『ルスランとリュドミラ』については会場でもらったプログラムの曲目解説に曰く「物語の舞台は古代ロシアのキエフ公国…」と。そもキエフ公国を古代「ロシア」と位置付けてしまっていいのかどうかは微妙な気もしますけれど、歴史の流れから想像すればその後のロシアがあるのはウクライナがあってこそと思えるわけでして、そこに「歴史的一体性」があると言えなくはないかもですが、それを武力行使で実現しようというのを良しとすることはできないでしょうなあ。
ラフマニノフはロシア革命に際して国を離れ、二度とロシアの地を踏むことはありませんでしたが、革命が起こった当時にその後のソ連が歩む道をラフマニノフが予見できたはずもありませんし、革命そのものへの考え方はそれぞれでしょうから、一概に革命と結び付けて考えようとするのは適当ではないかもしれません。
ただ、ロシアを離れたラフマニノフがあまり作品を作らなく(作れなく?)なって(ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしての活躍が期待されていたなどいろいろな要因はありましょう)、そんな作品数の少ない中、「スイスのルツェルン湖畔の別荘で作曲された」というこのパガニーニ・ラプソディーですけれど、これをロシア的というかどうか。最も有名な第18変奏は、ロシアの抒情という以上にハリウッド映画的でもあったりしますし(個人の印象です)、全体に被さる「怒りの日」をもってしても、単純にロシアの枠に収めていいとも言えないような。
一方で、ペルシア由来の『アラビアンナイト』を題材にした『シェエラザード』は雰囲気的に最も政治色とは離れてあるようにも思うところながら、海軍士官であったことでも知られるリムスキー=コルサコフが、帝政ロシアの南下政策にあってオスマン・トルコはもとよりペルシアのあたりでも国境争いがあったりしたところで、単に東洋趣味でエキゾチックな曲を書いたとは片付けてしまえないのかも。プログラム・ノートにはこんな紹介もありましたですな。
1888年に作曲された交響組曲〈シェエラザード〉は、(ボロディンの歌劇)〈イーゴリ公〉の補筆作業を(グラズノフとともに)手掛けるなかで着想された。どちらも東洋風の異国情緒に溢れ、雄大さと力強さが広がり、両作品の主題の共通性を指摘する音楽学者もいる。
『イーゴリ公』は「韃靼人の踊り」がアンコール・ピースとして知られるように周辺異民族を相手とする遠征が描かれていますので、こうした曲との関わりがあるとなれば、作曲者が『シェエラザード』に込めた思いは奈辺にありや?と勘ぐってしまいそうにもなろうかと。さりながら、よくよく元をたどればロシアの叙事詩として描かれたイーゴリ公はキエフ大公国の時代の人であって、これまた実はそもロシアと言い切っていいのか、とも思えてくるわけです。
考えてみれば、国境という区切りは見えない線であって、これを越えた人の往来が古来なされてきたわけですね。それが自然ななりゆきだからでしょう。それを人為的に「ここから先、出入りはまかりならん」てなこと言いましてもねえ…。
てなことで、オーケストラによる力強い演奏が繰り広げられる中、思い巡らしはあちこちと彷徨ってしまったわけでして。ま、そんなことが意図された演奏会はもちろんなかったのですけれどね。