かつての高槻城は1873年(明治6年)の「廃城令」で処分対象となったため、今や多少の石垣が残るくらいのようでして、敷地の中央部分は城跡公園として利用されているようで。これを2022年3月から「高槻城公園」と名を変えて、着々と整備計画を進行中とか。さりながら、名称変更から半年ほどですので、町なかの道標などに「城跡公園」と記載されたままなのは先に見た南大手門跡あたりの表示でも分かるところかと。ともあれ、城跡公園(高槻城公園)には南側から足を踏み入れたわけです。

 

公園内に入りますと、真正面に見えてくるのが高槻市立歴史民俗資料館という建物でして、当然にお城との関わりある歴史の展示解説でもあろうと思うところですが、どうも建物からしてそれらしくはないのですなあ。

 

 

近づいて入口脇の解説板を眺めやれば「旧笹井家住宅」とあって、建物としては江戸時代中頃に建造された町家で、「乾物や瀬戸物・米の商いをしていた」豪商の家を公園内に移築し、保存・公開しているのだということです。

 

 

しかしまあ、よほどの豪商だったのでしょう、本瓦葺きとは豪壮ではありませんか。ごく普通の瓦葺きでも相当に屋根が重くなりましょうけれど、本瓦葺きともなれば重さはひとしかと。それだけに支える梁は立派なものでありましたよ。

 

 

なんでも「この小屋組は棟木を受けるため丸太を合掌に組んだ扠首(さす)構造であり、本来草屋根の小屋組である扠首が、重い本瓦葺の屋根を支えてい」るのであるとか。かなり古い形式手法なんだそうでありますよ。

 

また、入口の扉もまた面白い構造になっていて(と、係の方が教えてくれました)、巨大な木組みの大戸を滑車で巻き上げて開け閉めするということで。係の方は細身の年配女性でしたけれど、ひとりで十分開け閉めできると言っていましたので、滑車の働きがスムーズなのでしょうなあ。

 

 

ただ、大きな扉を全開するのは商品搬入のときなどであって、普段は閉まっており、普通の大きさくらいの引き戸を開け閉めして出入りしていたようですけれどね。ちなみに座敷の方はこんな感じです。

 

 

でもって上の写真に見えておりますとおり三和土の土間には、いわゆるあちこちにある歴史民俗資料館と銘打つ施設同様に古い民具などが展示されておりました。折に触れて展示替えをするのでしょうか、このときは「回せば便利!昔の道具」として、回して使う道具を集めてあったようです。

 

 

ということで、お城のことはおよそ何も展示が無かったわけですけれど、歴史民俗資料館とは別に「しろあと歴史館」という施設があるということでしたので、後ほどそちらの方へも出向いてみるということに。ま、いささか思惑違いとも言えましたですが、建物として面白かったので良しとしましょう。で、城跡公園のお話はも少し続きます。