大阪へ出かける前の話になりますけれど、NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で取り上げていた映画とプロパガンダのお話はなかなか興味深いものでしたですね。ナチス・ドイツが映画をプロパガンダに使ったことはよく知られていますけれど、ナチスの宣伝相ゲッペルスに「映像の利用価値」というヒントを与えたのが、ソ連のセルゲイ・エイゼンシュテインの撮った『戦艦ポチョムキン』であったとは。ナチスといえば、反共であるはずなのに。
さらには、エイゼンシュテインがこの映画で試みた「モンタージュ」と言われる手法のヒントが日本の漢字を知ったことにあったとは、想像もつかない展開ではなかろうかと。偏と旁の組み合わせによって意味が異なってくる漢字。番組で紹介されていたのは、口偏に犬と書けば「ほえる」となり、同じ口偏に鳥と書けば「なく」となるといったあたり。要するに組み合わせの妙が生む意想外の効果といったところが、「モンタージュ」の根っことなったようです。
番組の方では、日本の漢字→ソ連のエイゼンシュテイン→ナチス・ドイツと繋がった連環はやがて日本に返ってきて、円谷英二の特撮にまで話が及ぶことになっていくのですけれど、ここでは取り敢えず『戦艦ポチョムキン』のお話を。
「オデッサの階段」と言われる場面に出てくる、親の手を離れた乳母車が階段を落ちていってしまうカットは、後にブライアン・デ・パルマが映画『アンタッチャブル』で再現してオマージュを捧げたりするほどに、映画『戦艦ポチョムキン』は有名であって、かつ映画史上でも画期的な作品とは聞き及んでおりました。高槻のホテルにいる間にこれをYoutubeで見られることを発見し、この際にとばかり見てみることにしたのでありますよ。
実際の映像の中で「モンタージュ」の技法がどういう使われ方をして、どれほどの効果を挙げているのかというあたりは、もはや語り尽くされたほどでもありましょうから、ここではちと目先を変えて映像に付けられた音楽の方に触れてみようかと思います。もともとサイレント映画ですので、台詞はかいつまんだ形の字幕表示で出ますので、映像には常に音楽が寄り添っている形でしたが、ちなみに思い出せる限りに使われていた音楽を羅列してみるとしましょう。
- シューベルト/『魔王』
- ホルスト/吹奏楽のための第二組曲より第三楽章「鍛冶屋の歌」
- ベートーヴェン/『コリオラン』序曲
- ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第14番「月光」より第三楽章
- ラヴェル/亡き王女のためのパヴァーヌ
- ホルスト/組曲『惑星』より「火星」
- ムソルグスキー/組曲『展覧会の絵』よりプロムナード
- グリーグ/『ペール・ギュント』第1組曲より第2曲「オーセの死」
- ショパン/軍隊ポロネーズ
- ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」より第一楽章
- ワーグナー/楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕への前奏曲
とまあ、拾いきれなかったものもありましょうし、もしかしたら勘違いもあるかも。その点はどうぞご容赦のほどを…と、それにしても、ほぼほぼ物語の進行に沿って並べてありますので、曲を思い浮かべていくと話の流れが後追いできるのではなかろうかというほどに、ある意味で分かりやすい選曲でもあるような。映像としてのモンタージュは両極端な結びつきが醸す相乗効果といった面もあろうかと思いますが、音楽の方ももそっとシンプルに付けられている気がしたものです。ただ、こちらの方も相当な効果を発揮しているように思えなくもありませんですね。
不穏な物語展開の始まりを告げる『魔王』、貧しくとも陽気な鍛冶屋(食事に事欠く水兵たちですな)はもちろん労働者階級で…続いていき、もはや暴発というときは「火星」で暗示されますけれど、ホルスト曰く「火星は戦いをもたらす者」の象徴であるわけで。水兵の暴動が革命の口火となり、オデッサの階段の悲劇には「オーセの死」が悲痛さを漂わせます。海上では政府軍艦隊とすわ決戦というときに「運命」のテーマが鳴り響き、実は政府側も革命に同調していたことが分かると「マイスタージンガー」が凱歌となって大団円を迎えるという次第。実に分かりやすい。
こんなあたりを気にかけてきますと、『戦艦ポチョムキン』という映画は「モンタージュ」の技法でもってその後の映画作りに影響を与えたのでしょうけれど、サイレントからやがてトーキーとなり、音楽もまた映画作品の完全な一部となったときにその音楽のありようを示唆してもいたのかもしれんなあと思ったり。かくて高槻のホテルの夜は更けていったのでありますよ(笑)。
てなところで、またしても父親の通院日となってまいりました。例によって通院介助のため、両親のところへ出向きますので、明日(9/15)はお休みを頂戴いたします。明後日(9/16)にはまたお目にかかりたく。どうぞよしなに。