時折じりじりとした日差しを感じたりはするものの、確かに秋へと季節は移っていっているのであるなと思う今日この頃、くにたち市民芸術小ホールで「晩夏のクラリネット五重奏」という演奏会を聴いてきたのでありますよ。

 

 

20世紀イギリスの作曲家フィンジの小品集「5つのバガテル」を突き出しに、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲をたっぷりと。実に染み入る音楽でしたなあ。夏場、何かと体が休まりきらない状態が続いて、そんな状態で臨む演奏会は往々にして没入できなかったりしましたけれど、このところほどよい睡眠が得られるようになってきているのも、ゆとりをもって音楽に臨める理由でもあろうかと思うところです。

 

フィンジは20世紀の作曲家とはいえ、およそ晦渋なところはありませんで、イギリス作家らしく民謡的なるメロディーが時折現れてほのぼのしたり。ただ、演奏者側としては、モーツァルトとブラームスに向けた足慣らしというか、そういう段階でもあったかと。足慣らしのままで終わらないのはさすがにプロなわけで(笑)。

 

ところで、クラリネット五重奏という編成での曲作りはさほどたくさんの作曲家が手掛けているところではありませんですが、そんな中、とにかくここで演奏されたモーツァルトとブラームスは双璧とも言える作品でもあろうかと。あえて言えば、モーツァルトはライト級チャンピオン、ブラームスの方はヘビー級の王者といったところですかね。あ、これは作曲者の体重のことでなくして、曲の印象の話ですが…と、蛇足でしたか。

 

曲として軽量級にも重量級にもそれぞれの良さがありますけれど、対比するとそれぞれの良さというものがじわっと伝わってきますですね。同じ編成であるのに、軽やかなモーツァルトの音とは全く違った印象の重厚なブラームスの音が流れてきたりするわけで。

 

そもブラームスには重厚長大(長大という点では、マーラーやブルックナーには敵いませんが)なイメージがありまして、個性の反映でもありましょうかね。そういう音が好きだったのでしょう。それだけに管楽器を用いた編成の室内楽曲を(ホルン三重奏曲を例外として除けば)クラリネット向けのソナタ、三重奏、五重奏しか作っていなかったのは、クラリネットのしっかりとした低音までを含む音域の広さに耳をとめたからなのではなかろうかと思ったり。ミュールフェルトという名奏者に触発されたとされるのも、その高音から低音までのたっぷり感を聴き取ったからではないですかねえ。

 

一方、モーツァルトの方もシュタードラーという名手がいたればこそできた曲ですので、かなりその名手性を際立たせるための曲作りがなされているように思うところ…なのですが、会場で配付されたプログラム・ノートには曲に関して、こんな紹介があったのですなあ。

シュタードラーはクラリネットの低音域の音色を好み、この曲を演奏するために楽器製作者のテオドール・ロッツとバセットクラリネット(通常より半音で4つ低い音が出る楽器)を開発し演奏していたが、現在、自筆譜は…紛失しており、流通している楽譜は1802年に一般的なA管クラリネットのために編曲されたものになる。

ということで、モーツァルト作曲当時の姿を偲ぶにはバセットクラリネットの演奏でとなるも、その場合には「奏者自身が編曲し演奏することが多い」となるのはいささか痛し痒し。ともあれ、今回はまさにそのバセットクラリネットを用いた演奏だったのでありますよ。

 

普通のクラリネットより明らかに長い本体を持つバセットクラリネットは、バスクラ(近頃はさかなクンの演奏で知られておりますな)と普通のクラリネットを繋ぐような立ち位置なのかもですが、バスクラが正しくバス声部であるとするならば、バセットクラリネットの方はいわばバリトンで、活躍の幅の広さが窺えるところかと。それでも十二分に低音の魅力を伝えてくれるものでありました。曲の随所で「こんな音、出してたんだっけ?」という部分に遭遇しましたが、もしかするとこのあたりが今回の演奏での奏者による編曲部分だったのかなと思ったところです。

 

普段聴いているアルフレート・プリンツとウィーン室内団による演奏のCDは、これはこれでいかにもウィーンらしい典雅さが魅力的ですけれど、家でそれを聴いているだけではスルーしてしまっていた音にも気づかされた気がしたものでありますよ。もう一枚、バセットクラリネットによる演奏のCDも手元にあったっけと、久しぶりに取り出してみましたら、なるほど低音の使い方には今回の演奏に近いところがあると今さらに。

 

 

 

家でCDを聴くにもぼやっとしてばかりでは聴き逃すこともありますなあ。ま、演奏会に臨むのとはそもそも姿勢が異なっておりますけれどね(笑)。