何かしらに対して興味がある、あるいは興味が無い。これが一途に続く人もいればそうでない人もおりましょうなあ。ムラッ気が多い性質としては、いつのまにやらそれまでとんと興味の無かったことに対して、俄然前のめりになったりもすることがありまして、興味の移り変わりといったものをひしひしと感じている次第でありますよ。

 

このところ日本史絡みの本をあれこれ読んだりしてもいますし、気付けば東京新聞に毎週連載されているコラム『よもやま邪馬台国』に欠かさず目を通したりしているものの、受験で「世界史」に入れ込んだ過去(から長く最近まで続いた傾向)があるものですから、いったいいつの間に「日本史」方面にまで気に掛けるようになったのか、我がことながら判然としないのですが、今週もまた同コラムを目を通していてふと、「そういえば…」ということが思い出されました。

 

昔々、光文社のカッパ・ブックスなるもっぱら実用書中心のシリーズの中にあった『邪馬台国は沈んだ つきとめられた幻の国』という一冊を読んだんだったなあと朧気ながら。どうやら1975年に刊行されたようで、その頃に読んだのでしょう。内容はいささかも覚えてはおりませんが、顧みればその頃に邪馬台国の本を読もうとするだけの興味が日本史方面にあったのだなと思い出されてきたわけです。

 

そも邪馬台国はそれがどこにあったのか。九州なのか、畿内なのかを巡って今でもはっきりしていないところながら、奈良県の箸墓古墳が「卑弥呼の墓では?!」として注目されて一躍、畿内説が浮上していたりするのかも。ひところの個人的な受け止め方からすると「そりゃ、そうだろうねえ」と。その後の歴史が畿内中心に刻まれてきたということ(それだけの理由)で、「九州ってことはなかろうに。畿内だあねぇえ」と思っていたわけでして。九州説がどんな背景のもとに展開されているのかを知ることもなしに(このあたり、興味が上っ面であることを物語っておりますね)。

 

つまりは「記紀神話」などにもよる、作られた日本史を鵜呑みにしていたようなものでもありまして、歴史を批判的に見るなどと書いている者が言えた義理ではありませんけれど、かつてはそんなことでもあったのでありますよ。

 

さりながら、今回のコラム「帝王のムラサキ」(2022年8月16日掲載分)を読んでいて、「ああ、邪馬台国は九州にあったのかもしれんなあ」と今さらながら。卑弥呼が魏に送った使者の献上品の中に絹織物が含まれていたという記載に続いて、こんな紹介がなされておりましたよ。

注目されるのは女王(卑弥呼)の献上品に絹織物が含まれていたこと。倭人伝には、「倭人は蚕を育てて絹織物を作る」という内容の記述があり、邪馬台国探索の重要な手掛かりとされてきた。
弥生時代の絹製品は、北部九州の遺跡で集中的に出土する。国内最大規模の環壕集落である吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市・吉野ヶ里町)でも、甕棺墓の人骨や剣などに付着して三十点以上の絹や麻の布片が見つかった。

これまでコラムを読んできて、北部九州には数々の小国が分立しており、それぞれに大陸との関係などを構築していたことが窺われたわけですけれど、それらの小国を取りまとめる形で邪馬台国の卑弥呼が北部九州にいたとすることに、無理やり感を抱くことはないですし(だからといって、決定!とは言えないでしょうけれど)。

 

と、邪馬台国のありか論争とは別に思い至るのは、これまで教科書的な時代区分に縛られてもいたのであるなということでしょうか。縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代…と時代が移る際に、あたかも「昨日まで縄文、今日から弥生」といった画期が存在するかのように思ってしまっていたところがあるも、「今日を境に」などということはそうそうあるはずもないですね。特に古代においては。

 

そうしたことに思い至る以前、ある日突然に弥生時代から古墳時代へと移り変わったようにも受け止めていたことも、やはりそんなことはない。上記の引用からも伺い知れますように、邪馬台国は弥生時代と古墳時代の端境期にあったようにも思えるわけで。

 

さらには、そんな昔々から絹製品が作られていたということでしょうか。明治の殖産興業で日本は絹の輸出大国になるものの、それ以前は非常に貴重品としてむしろ輸入に頼ってもいたようですから、それを遡る遥か昔にはまさに魏王への献上品に含めるにふさわしいレアものだったのかもしれませんですね。区分しれませんですなあ。

 

ところで今回のコラムのタイトルにある「帝王のムラサキ」とは、織物を染める染料のことですな。取り分け紫色は巻き貝から採取する原料を用いるそうですが、その原料たるや「千個の貝から数グラムしかとれない」となれば、そりゃ帝王などの貴顕にしか使えないことになりましょう。後に聖徳太子の時代でも、冠位十二階による冠の色遣いでは紫が最上位にあったのではなかったかと。

 

ちなみにやはりコラムに曰く、巻き貝から紫の色を得る方法ではそのプロセスには「強烈な悪臭」がついてくるのだとか。そんな採取方法を考え出してのもっ弥生人なのですな。その当時から錬金術師みたいな存在があったのでもありましょうかね(笑)。