土曜日の午前8時ころ。朝から何やら子どもたちの声がにぎやかに聴こえてきて、ふと思い至ったのが「そういえば、今日から子ども会の廃品回収が再開されるとかいうことだったな…」と。

 

新型コロナウイルスの感染拡大以前、近隣の子ども会(といって、親の親睦会のようなところもあるようですが)では月に一度、土曜日の朝に廃品回収として称して、古新聞や雑紙、アルミ缶などを各家庭から集めてくるという作業に子どもたちが走り回る姿があったのですな。上がった収益は子ども会の行事に使われたりするわけですが、かつてはこの廃品回収に子どもたちの参加が捗々しくない、結局のところ親(現実的には相当な割合でおかあさん方ですが)が集めて回ってしまうということでもあったようで。

 

土曜日の朝はのんびりしたいと、サラリーマン的なる感覚が当時の子どもたちを支配していたのやもしれませんですが、久しぶりに復活した廃品回収では朝から元気に駆け回る子どもたちの声が聴こえてきたものでありまして、こりゃあやっぱり、思いのほか長期化した巣篭りの結果として、外を駆け回れる機会は子どもたちにとって何よりうれしいことであるのかなと考えたりしたものなのでありますよ。

 

と、そんな折、ふと昨日に昼飯で立ち寄ったお店のことを思い出したのですね。立川にある「春巻のニューヨーク」という店でして、元々立川には「餃子のニューヨーク」(餃子にしても春巻にしても、なぜニューヨークなのかは不明です)という店があって、その姉妹店ということで。ともあれ、その店名はこのように記されているのですね。

 

 

ちとボケボケで郷愁ですが、「春巻的紐約」とありますな。ニューヨークを漢字表記にしますと、日本では「紐育」が一般的だった(昔『踊る大紐育』なんつうタイトルのミュージカル映画がありましたけれど、すでにして外国地名を漢字で表記すること自体、一般的ではないでしょうけれどね)と思いますけれど、中国では「紐約」(の簡体字)と書くよ言うです。ま、それはともかくとしてここでの注目点は「的」というところなのですな。

 

春巻「の」ニューヨークが春巻「的」紐約と書かれるのですから、中国語の「的」と日本語の「の」がほぼ等しい使われようなのだろうと想像されますですね。さりながら、日本人の語感としては「何々の~」という場合と「何々的~」とでは意味合いには違った含みがありませんでしょうか。

 

例えば(とようやくここで子ども会の廃品回収の話といささか結びつきが出てきます)、先ほど廃品回収に子どもがあまり参加しないとおかあさん方が集めてまわっていた…という(良し悪しは別としてかつて見たままの)お話をしましたですが、どっぷり昭和の感覚では、そうした子ども会の世話などはおかあさん「の」役割と考えられていたのではなかったかと。

 

ここで試しに先ほどの「的」を使って置き換えてみますとおかあさん「的」役割となりますな。おそらくは、おかあさん「の」役割というのと、おかあさん「的」役割というのとでは、意味合いが異なりますですね。前者はおかあさんに限定的ですが、後者は役割の説明要素になっているような。

 

こうした違いに対する感覚は、おそらく日本と中国とで同じでは無かろうとは想像しますけれど、ここでまた思い出すのがしばらく前の新聞記事にあったことなのでありますよ。検索の結果として2022年2月2日付と判明した見出しに曰く「中国でなぜ、ひらがな「の」が多用されるのか…きっかけはアニメ?飲み物?」というものでして。

 

どうやら中国ではひらがなの「の」を「的」に置き換えず使用する例がまま見られるようになっているのだとか。アニメ『進撃の巨人』が大ヒットし、日本メーカーの飲料『午後の紅茶』もばか売れしたというあたりとの関わりが指摘されていましたけれど、これはどうやら日本でアルファベット表記が当たり前のように混在して使われるのと同じような感覚で使われてもいようかと。飲料などに関しては日本製品の品質の良さを、ひらがなの「の」を用いることでアピールしているてな受け止め方も記されておりましたですね。

 

ともあれそんな具合に、中国ではやはり「的」と「の」は同じ意味ながら表面的な見た目で若干受け止め方に含みが出るような形であって、日本では「的」と「の」に意味としてニュアンスの違いを感じるというところがあろうかと思ったりするわけです。

 

ところで話をまとめるのに適当なことかどうかは分かりませんですが、先ほど引き合いに出した「おかあさんの役割」という使い方は、どっぷり昭和の時代が過ぎ去ったご時世からすればむしろ「おかあさん的役割」、つまりは誰がやってもいい役割の中身を表すように考えるのが自然になってもおりましょう。もっとも、例示ながら何度も「おかあさん」を連発してしまいましたけれど、あくまで例えでありますよ。これを「親の役割」、「親的役割」といっても、感じさせる効果は同じでありましょうから。