2022年度シーズンになって初めて、オーケストラの演奏会を聴いてきたのでありますよ。例によって、読響の東京芸術劇場公演でありまして。
指揮に登場したのは小林研一郎、曲はベートーヴェンのトリプルコンチェルトとベルリオーズの幻想交響曲でしたけれど、ベートーヴェンの方は何度耳にしてもピンとくるとっかかりが得られないままでして、今回は多少「こういう曲か…」と思いながらも結局は霧の中の状態で…と、それはともかくも(個人的には)この日の演奏会はやはり幻想を聴くためにあったというべきかもでしょうか(三人のソリストの方々には申し訳なくも…)。
先にヴィヴァルディの「四季」をいくつかのCDで聴いたときに、「あまりにも有名になりすぎて些か手垢がついてしまった感のある」曲てなことを申しましたですが、ベルリオーズの幻想交響曲もやはり有名になりすぎて、という嫌いが無きにしもあらずでしょうかね。
さりながらその有名どころの限られた曲を、歳を重ねて自家薬籠中のものとした小林研一郎は熱演する。幻想交響曲もまたその一つのようですなあ。例によって、「ここまでやるんだ」という低音の底支え(以上の露出)とともに、緩急も強弱もテンポも間の置き方も全て自らの思い通りに作り上げ、オケもまたしっかりこれに応えつつ、結果として今そこで生み出される音楽に聴衆は心躍らせるのですなあ。斯くいう自分もそのひとりですけれどね。
ま、こうした演奏のありようが「炎のコバケン」と言われる所以であろうとは思うものの、「炎の」はそれでいいとして、「コバケン」という呼ばれ方、まるで友だちでもあるかのような呼ばれ方はお人柄なのでしょうなあ。
どうも「なになにけんいち」とか「なになにけんじ」とかいう名前の友人がいたとして、苗字のあたま二文字と「けん」を組み合わせて呼ぶ呼び方が多くあるような気がしますですね。例えば斎藤健一だったら「さいけん」とか(これは、実際に子供の頃にあったことですが)。同様のことが、ずいぶん前に読んだ椎名誠のエッセイにもあったような。
ともあれ、そんな親しみを込めた呼び方が「コバケン」には込められているような気がするのでありますよ。理由のひとつには、オーケストラの演奏会には珍しく(MCがいるような企画ものはともかくも)決まって演奏終了後(最近は)に聴衆に語り掛けるということがあるような気もしておりますよ。
この日も大音響で幻想が締めくくられた後、鳴り止まない拍手に何度か出たり引っ込んだりしたコバケンが、脇に抱えたマイクを取り出して「やっぱりな」とにんまりしてしまったものです。音的にも体力的にも完全燃焼系であった演奏の後だけにアンコールは無しでもいいわけですが、サービス精神旺盛なコバケンとしてはそれでは済まない。
オーケストラの皆さんに無理を言ってと前置きしてから、「(幻想の最後)1分30秒ほどですが、お届けします」と、やおら爆演の再来が現出したわけです。聴衆はさらに高揚し、熱狂する。ツボを心得ていますなあ。こうしたパフォーマンスは、音楽としての満足感とは別に、音楽会としての満足感にもつながるところでもあろうなあと思ったりしたものです。ある種、ひとつのティピカルなありようなのだなあと、余韻に浸りながら帰途についたのでありました。