東京・福生のベースサイドストリート、国道16号から外れて西へ。あそこもここもというかつての米軍ハウスが建ち並ぶあたりを抜けますと、そこには多摩川ごしに山林を望み、瓦屋根の民家が続く、昔ながらの(横田基地とは関わりの薄いであろう)福生の街中となってくるのでありますよ。立派な蔵が建っていたりして。

 

 

旧市街ともいうべきそのあたりに、福生ではその名の知られた旧家の建物が公開されているということでしたので、立ち寄ってみたのでありますよ。曰く、「旧ヤマジュウ田村家住宅」として(ちなみに、上の土蔵はまったく違うお宅のものです)。

 

 

「ヤマジュウ(仐)」というのは屋号でして、長く福生で造り酒屋を営む田村家の分家の住まいであったようです。ちなみに本家の屋号は「かねじゅう」というようで、酒蔵の方はこちらの住宅を見て回ったあとに立ち寄った…とは、のちのお話。ともあれ、明治になって分家したこちらでは郵便局長さんを務めておられたようですなあ。

 

 

庭越しの向かいの敷地には明治期の擬洋風を思わせる建物がありますけれど、当初は自邸内で業務を行ったようながら、その後大正5年に新築した局舎がこちらの建物だったようです。福生市郷土資料室HPでは、こんな紹介がありましたですよ。

田村家では、明治44年(1911)に旧福生郵便局を住宅の向かいに開設しました。その後、旧福生郵便局内で大正7年(1918)に電報電話業務を、大正10年(1921)には電話交換業務を始めるなど、旧福生村の発展に尽くしました。

これがどうやら現在はキリスト教系の教会になっているようで、建物に興味はありましたが、いささか怪しげな気配を察知して近づくのは止めておいた次第。で、田村住宅に改めてフォーカスすることに。

 

 

 

この主屋は棟札から明治35年(1902年)に建てられたそうですから、築120年ということになりますな。もっとも10年前(2012年)までは普通にご家族が住んでいたようですので、折々住みやすく手を加えていったのでもありましょう。その点、歴史的な建造物というよりも、大きめな昔からの民家と思ってよいのかもです。

 

 

案内の方が教えてくださいましたが、面白いなと思いましたのは玄関脇にやおら風呂場があることでしょうか。まあ、その裏側にある台所と水場をまとめたということかもしれませんけれど、玄関の三和土に直結した板戸を開けますと、唐突に風呂場が現れるのですよね。

 

 

まずは右手の板の間によっこらしょっと上がって脱衣し、その奥の一段低くなったところが洗い場、そして左手に浴槽が撤去されていますけれど、ここで湯に浸かったということなのでしょう。ここのお宅は古いながら、便所も屋内に設けられておりましたよ。

 

 

主屋の裏手にはいずれも明治期に建てられたという土蔵が二棟ありまして(ということは、やっぱり素封家なのですな)、そのうちの東土蔵(手前側)が公開されておりました。(非公開の)西土蔵の方には「結婚式や葬式など冠婚葬祭のときに使う膳や椀」などが収納されていたということですので、先に福生市郷土資料室の常設展示で見た「椀膳倉」が地域の共用であったのに対して、田村家は自前で抱えていたということになりましょうかね。

 

 

ともあれ、公開されている東土蔵の中はギャラリーのようになっておりましたですよ。展示されているのは昭和6年(1931年)生まれで福生市在住の方が少年の頃の記憶に基づいて描いた福生の街並みということで、これも郷愁を誘うような景観だったですなあ。

 

 

 

上の絵には「田村分水」と書かれていますから田村家で分水を設けたのでしょうかね。下には、「かねじゅう」マークがありますから、田村本家の造り酒屋のようすでありましょう。というところで、次の目的地はこの田村酒造場なのでありますよ。