先日読んだ『塹壕の四週間』で、歴史的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーがよもやの職業軍人であったことを知ったわけですが、戦後の演奏旅行では戦勝国である英米仏などにも出かけて嫌な思いもしたことでありましょうなあ。クライスラーが自ら作曲し、あるいは既存曲のメロディーをヴァイオリン独奏用に編曲したりしたのは、リサイタル用の小品が少ないからということもあったようですけれど、リサイタル自体の開催が思うに任せないなんつう状況も、もしかしたらあったかもしれない…と想像してみたり。

 

ともあれ、これも機会ですのでクライスラーのヴァイオリン曲を聴いてみることにして、市の図書館にあるCDを検索してみますと、なんとまあ、クライスラー自身の演奏を収録したものが見つかったものですから、早速に借り出してきた次第。『クライスラー・プレイズ・クライスラー』という一枚です。

 

 

録音は1926年から1938年までといずれ劣らぬヒストリカルな音源を使っていますので、当然にSP盤からの復刻でしょう、レコードの盤上を針がすりすりする音が聞こえてきます。さりながらそれも僅かなもので、リマスターの技術のおかげでしょうか、非常に聴きやすい音でありましたですよ。

 

でもって、聴きやすい音であったことにもよりましょうけれど、実に心地よい気持ちが湧いてきたのですなあ。思うに、その気持ちの良さの源泉はノスタルジー、懐かしさにあろうかと気付いたようなわけです。

 

もちろん録音年代は、日本でいえば大正末から昭和初期ですので、その頃のことを思い出すというわけではありませんですね。何せ(さすがに)生まれてませんので。ではいったい?と思い巡らしてみますれば、「ああ、ラジオだ」と思い至ったのですな。いつのこと?と言って思い出せることはないのですけれど、それでも昔々、ラジオから聴こえてきたであろう音楽でもあるような気がしてならないという。

 

ちょうどテレビ(もちろん白黒ですが)が普及し始めたであろう頃の生まれでして、当時の家庭では日常的にラジオを流しているという状況があったように思うのですね。ですから、ラジオの番組、そしてそれ以上にラジオCMが何とはなしに耳馴染みにいたりもするところでありまして。

 

そんなCMの中に、クライスラーのヴァイオリン曲を使っていたものがあったかどうか、これまた判然とはしませんけれど、そんな懐かしさを抱きつつかかるCDに耳を傾けておりますと、最後の最後になって「おお!」と。流れたのはドルドラ作曲の「思い出」なのでありました。いったい何の宣伝CMであったか、いささかも思い出せませんですが、間違いなくこの曲はラジオCMで聴いたものであろうかと。

 

もっとも「記憶は嘘をつく」とも言いますし、ましてクライスラーによる演奏が使われていたものでもないとは思うところですけれど、おそらくは今のヴァイオリニストで聴くスピーディーでスタイリッシュな演奏とはひと味もふた味も違う味わい。それこそが懐かしさを誘引する所以でもあったろうとは思うところです。

 

とまあ、クライスラーの音楽や演奏の話をよそに、すっかり昔懐かしという話になってしまいましたが、音楽が記憶に働きかける力をまた改めて思い知ったところでありました。ある曲を耳すると、ある時代の思い出がよみがえる。普段全く意識せずとも記憶の水底に沈潜でいたものが、音楽の力で水がかき回され、思いがけず浮上してくるような。誰しも経験したことのあることではありましょうねえ。