以前の職場で、お世話になった上司や先輩が定年退職される際には、それぞれに「お守り」を渡していたのですなあ。未だ海外に出たことがないけれど、退職後は「コルチナ・ダンペッツォでスキーがしたい」と言っていた方には、台東区竜泉にある龍光山正宝院、一般に飛不動尊と言われるお寺の「飛行護」を用意しました。
日頃から散歩好き、野山歩きが好きだという方にはいつも怪我無く「かえる」よう、港区麻布の十番稲荷神社の「かえる御守」を調達、お若い頃にウインドサーフィンをやっていて、もしかしてまた海に出るかもという方には、航海安全を祈願して金刀比羅宮(港区虎ノ門の方ですが…)の御守を準備したものでありましたよ。
昨2021年末に自らが退職する際には、府中・大國魂神社の干支御守から2022年用に寅バージョンのものを同じ課のひとりひとりに渡して、(いなくなることで当座は面倒を掛けるであろうけれど)それぞれの多幸を託してきたものです。本来は自分の生まれ年の干支の分を身に着けておくものかもしれませんですが、まあ、とりあえず。
とまあ、かように何かと「お守り」のお世話になってきていながら言うものなんですが、実は神仏に信心しているようなことが全く無いのでありますので、我ながら奇異な行動であったかとも顧みているところです。ま、自然信仰的に折に触れて、(具体的な神仏ではない)何かに心動かされるようなことが無いでは無い。長くヒトたる生き物が見つけてきたことかもしれませんけれど、それを神や仏というのかはともかくも、そうしたものを仮に信仰心と言うのであれば、そんなこととの繋がりが「お守り」に目をつけたそもそもかもしれません。
やおらこのようなことを思い巡らしましたのは、先日Eテレ『京コトはじめ」の「進化を続ける 京のお守り」という放送回を見たからでもありまして。ここでは「お守り」に積極的な意味?を見出して、肌身離さず身に着けているといった方々が登場したりしたわけですが、そうした方々がいわゆる信仰心に篤いかと言えば、人それぞれでしょうけれど、必ずしも一様ではないのですよね。
ご本人たちの気付きがあるかどうかは別として、このときに思い至りましたのは「お守り」というのは「きっかけを与えるもの」なのであるかなということなのでありますよ。神仏にすがろうが、お守りを大事に持っていようが、おそらく祈願することがそれだけで成就するとは、おそらく誰も考えておらない。昔々の神頼みとはさすがに感覚が異なりましょうね。つまりは、神仏へ祈願したことが成就するかどうかは、それを神仏と自らの約束と捉えて、自分の側がただ待つ立場にならずに行動するといいますか、そうした能動性が求められるところでありましょう。
そこで、神仏と約束したということをを忘れないようにするために「お守り」を身に着けておく。商売繁盛にせよ、家内安全にせよ、学業成就にせよ、神仏との約束が成就するように努力することを、安きに流れやすい人間だけにともすると怠りがちになってしまうわけですけれど、「お守り」はこれを目にすることでもう一度背中を押す「きっかけ」になるものなのであろうなあと、そんなことを今さらながらに考えた次第でありますよ。
先に神仏に信心しているわけではないと言いましたですが、神仏の存在を思い描いた方が都合が良い場合は確かにあるような。願いの成就へ向けた「きっかけ」となる「お守り」も、神仏との約束を前提としたような話をしましたが、これも神仏が約束相手としていることを想定してもいるわけですから。このあたり、ともすると相当に不遜な物言いとなってもおりましょうけれど、都合よく考えていいのではと、個人的には思うところなのでありました。