東京・福生市の郷土資料室を訪ね、企画展示「教科書から読み解く社会」を見てあれこれ思いを巡らしたわけですけれど、郷土資料室というからには当然にして福生市の自然や歴史を振り返るような常設展示のコーナーがあるわけですな。やはり大きくはないスペースながら、真ん中にどおんと蔵が再現されているのでありますよ。

 

 

「椀膳倉」というのだそうで、「庭場という地域や講ごとに共有する祝儀道具や食器類を収納」する施設として設けられておると。「地縁的集団が、婚礼や葬式などの通過儀礼や主だった年中行事の時に相互援助を発揮」した、ひとつの発露でもあるわけですな。

 

 

ことごとに必ず必要になる品物とはいえ、ひとつひとつの家で用意するには費用が掛かり、さほど使用頻度が高くはないとなれば保管場所にも困る。そんな問題を地域共有として解決する形でしょうけれど、こうした地縁的な相互扶助のあり方は、もはや都会ではほとんどなくなっておりますなあ。いい面もあろうかとは思いますが。

 

ところで福生の産業として紹介されておりますのは、やはりといいますか、養蚕業なのですなあ。もっとも、元は手作業で細々と行われていたものを、地域経済の発展のためとして、高橋治平という人が群馬などの養蚕先進地を視察して、養蚕を大いに奨励したのであるとか。その甲斐あって福生には東京初の製糸工場である森田製糸所が誕生し、1902年(明治35年)の最盛期には従業員数400人ともなる大工場となっていたそうで。ということで、製糸に絡む道具類なども展示される中、なぜここにこれが?と思うのが、自転車であろうかと。

 

 

一時、盛況であった森田製糸所は大正時代に入って、生糸の大暴落やら関東大震災やらと経済的に苦しい状態となりまして、長野県岡谷市発祥の片倉製糸に経営が移ることになったようですな。後には、あの富岡製糸場も傘下に収めるわけですから、当時の片倉製糸は日本最大の製糸会社とも言われたようです。

 

さりながら戦時下となりますと、(製糸のための機械作りの技術があったのでしょうか)「航空機制作の下請けをする軍需工場」となり、戦後にはここで培った技術を活かして自転車産業へと転換を図ったということなのでありますよ。「片倉自転車として昭和61年(1986年)まで自転車やオートバイを生産」していた…と、ようやく自転車に繋がりました。それにしても、本業に代わり軍需で培った技術で他品目へ転換するとは、あたかもヤマハのごとしですなあ。ピアノの木工技術を活かして、戦争中は飛行機も木製プロペラを作り、そんなこんなのうちに発動機つながりでオートバイやらボートを作ってしまうわけですから。

 

 

ところで片倉自転車は1986年まで生産されていたとあって、「確かにそういう自転車、あったな」と思うところですけれど、片倉シルク号との名付けの所以がここでようやく理解できたのでありましたよ。高品質であることから1964年の東京オリンピックでは自転車競技で使われることにもなったてなことも含め、自転車思わぬところで思わぬことを知ったりもするものでありますなあ。