くにたち市民芸術小ホールというところで開催されたチューバのソロ・リサイタル(珍しい!)を聴いてきたのですね。国立市は貧乏自治体ゆえに市内に公会堂のような大きな施設はありませんで、芸術公演はもっぱらこの小ホールで行われ、市立の小・中学校で発表会などがある場合はお隣の立川市の施設(RISURUホール)が使われたりします。まあ、大きな箱ものがあるのが必ずしも良いとはいいませんですが…。

 

ともあれ、今回のリサイタルはチューバ奏者・坂本光太による「チューバで聞く音楽の4世紀」という企画もの。18世紀から21世紀までの4世紀、それぞれの世紀に作曲された曲を順に聴いていこうというものでありましたよ。

 

 

最初は18世紀の作品で、ベートーヴェンのホルン・ソナタ作品17。ただ、1800年に書かれたそうですので、限りなく19世紀に近いところの作品ではありますけれど。さりながら、その当時はまだチューバという楽器は存在していませんでしたので、ホルンのために書かれた曲をオクターブ下げて演奏するという形でしたな。

 

当時はホルンそのものもまだナチュラル・ホルンの時代で基本的には自然倍音しか出せないものながら、技巧的に音階を作り出してしまうジョヴァンニ・プントなる奏者がいて、ベートーヴェンはそれを当て込んでこれでもかとやりたい放題の技巧を詰め込んだというのですな。その点、チューバで再現するという今回の演奏は、テクニックの見せ所でもあったことでしょう。

 

続いて19世紀からの選曲は、クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品22というもの。100年のうちに作られた作品の中から何を選ぶか、選曲にもかなりこだわりがあるように思うところです。ステージでの楽曲説明で、クララがいかにロベルトに気を使って自らの作曲を後回しにしたかに触れられていましたですが、女性の作曲家ということ自体に眉を顰めるような時代でもあったわけながら、クララがもそっとじっくり作曲に取り組んでいたならば…と詮無い想像を巡らしたくもなるところですね。その点では、フェリックスの姉・ファニー・メンデルスゾーンにしても、ですが。

 

ここまで古典派、ロマン派の音楽はそれぞれいかにもな耳馴染みの曲でしたけれど、20世紀に至り、これはこれでいかにもな「20世紀音楽」であったような。曲はジェニファー・グラスの「チューバとピアノのためのソナティナ」で、ここへ来てようやく、本来的にチューバ・ソロのために書かれた曲になりましたですよ。

 

かつてPJBE(フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブル)のチューバ奏者としても活躍したジョン・フレッチャーのために書かれた曲ということですけれど、バロックから現代曲まで幅広く手掛けたPJBEのCD、というかレコードでは1970年代当時、リアルタイム現代の作品にも触れることができましたですなあ。そんな曲に接してびっくらこいたものであったなあと思い出したりも。今でこそその類の曲でびっくりこいたりはしませんですが、びっくりこいたことと共に音楽が思い出としてよみがえるものなのですなあ…。

 

そして、いよいよ迎える本当のリアルタイム現代曲、21世紀のという以上に奏者による新しい委嘱作品は出来立てほやほや。いわばその場が世界初演ということでありましたよ。タイトルは「あるチューバについての物語」、久保田

翠という作曲家による作品でありました。

 

演奏が始まって、果たしてこれは楽曲であるのか…と思ったりしたですが、芸術作品がそれぞれの領域を跨いで展開される、例えばパフォーミング・アーツといったものも決して珍しくはなくなっている現代では、音楽がホールの中でひとり「音楽会です」と言っているばかりでなくなってもいるのでしょう。曲の印象を言葉では伝えにくいですが、はっきり言ってこの曲の中で奏者は音を鳴らすよりも語っている部分の方が長いですし、さまざまなおもちゃの鳴り物のようなものを鳴らしたりもしていたりするのでして。

 

と、途中まではパフォーミングアーツという受け止め方で自らの理解度合を納得させていたのですけれど、演奏後半に至り、これまでの語りが繰り返されるに及んで、最初の印象は「またやるの…、まだやるの…」と思ってしまったり。さりながらふと思い至ったところは、逆に?「ああ、音楽だったんだあ」ということなのでありますよ。

 

楽器を目の前にして音楽はその楽器でこそ演奏されるものと思ってしまいますが、声を使う音楽もあるわけです。それが歌唱といった形でなくとも。そして、楽譜には繰り返し記号やダ・カーポ、ダル・セーニョなどで示されるように、突如として「前にやったじゃん」という部分に立ち戻ることがあるわけですね。それを語りという形でやったときに、それが音楽ではないとは言えないのであるなあと、突如として気付かされたのでありますよ。

 

ああ、これは音楽のありようのひとつを示してくれただけで、大騒ぎするような話ではなかったのだと、曲が終わったときには妙に新鮮な気持ちになったものでして、その後に作曲者はアメリカ実験音楽を研究していることを知り、一方の奏者も「前衛音楽、実験音楽の社会的な側面に惹かれながら、演奏の可能性を追求」とプログラム・ノートにあったことで「なるほどなあ」と。

 

ただただ、「チューバの低音の魅力を聴こうかね」くらいの気持ちで出向いたわけながら、思わぬ気付きに出くわした次第。あたかも、ふいに覗いたコンテンポラリー・アートの展覧会で、脳内ハードディスクが唸りを挙げたときにも等しいようでありました。