先に立ち寄った武蔵国分寺跡資料館は、天平の往時を偲ぶ武蔵国分寺の展示解説はもとより、

国分寺市の郷土資料館的な意味合いもあるようでしたけれど、

近隣には国分寺市文化財資料展示室という別の施設があるということで、そちらに向かいます。

 

 

この道標からも窺えますように、別施設の方は国分寺とともに造られた国分尼寺の史跡方面にあることから、

どうやら国分寺の発掘遺物、国分尼寺の発掘遺物を棲み分けて扱ってもいるようですなあ。

 

 

とまれ、たどり着いてみれば大きな建物の片隅に間借りのような状態でありましたよ。

資料展示「室」という名称もむべなるかなと思うところですが、この建物の本来は

国分寺市立第四中学校の体育館ということだそうで。そうと気付かされてみると、なるほどです。

 

されど、なぜここに?ということにつきましては、

係の方が(あまり来訪者がいないのか、待ってましたとばかりに現れて)説明してくれたところによると、

この中学校は国分寺跡と国分尼寺跡の間にあたる敷地でありまして、建て替えの折でしょうか、

発掘調査が行われたところ、大判小判がざっくざく…てなお戯れはともかくも、

「平安時代中頃~終末にかけての掘立柱建物跡40棟・竪穴住居跡89軒・井戸跡など多数の遺構」が

見つかったというのですなあ。

 

何か見つかるかも…と誰かが判断して発掘することになるのか、細かな手順は分かりませんですが、

まあ、国分寺・国分尼寺という大きなお寺の近くなだけに、掘ればやっぱり何か出た!ということでしょうかね。

 

ちなみに発見された竪穴住居の中には鍛冶工房が3棟含まれていたとか。

「道路状遺構によって区画された中に整然と配置され」ていたことから、

国分寺・国分尼寺の営繕関係を担った「修理院(すりいん)」だったのではとも考えられているようです。

例によって(とは、武蔵国分寺跡資料館でたくさんの瓦の展示を見たからですが)

こちらからも瓦を始め、遺物もたくさん出土しているということで。

 

 

まあ、こちらの展示室はさほどに大きくないスペース(別室に全国国分寺の瓦コレクションあり)ですが、

国分尼寺関係のビデオを見ることができました。というところで、国分尼寺跡のお話へと続いてまいります。