先月1月、2022年最初の三連休のときには未だ蔓防に至っておらなかったものの、
感染者数急上昇が予感されていた時期で、連休ながらも外出は控えめに
世田谷美術館と川崎市立岡本太郎美術館とを訪ねたのみで終わったのでしたなあ。
それからひと月、迎えた2月の三連休は結局のところ蔓防のさなか、
しかもの期間が延長されるという方向の中にあっては、やはりそれなりの行動にはなろうかと。
ということで、決して遠いわけではありませんですが、中央線沿線住民にはちょいと出向きにくい町田方面に
出かけてきたのですありますよ。この連休のお楽しみは、まあ、これくらいのものです。
3カ所ほど周ったうちのひとつがこちら、町田市立自由民権資料館。
かつて訪ねたことはありますけれど、もうどのくらい前であったか思い出せないほどになりますもので。
ともあれ、町田を含む多摩地域での自由民権運動の高まりのほど、資料を通じて見てきましたですよ。
国民から選んだ議員による国会の開設を求めた自由民権運動と関わりあることとしまして、
やはり多摩地域、今のあきる野市に集った面々が「五日市憲法」として知られる憲法草案を作ったことは
夙に知られたところであろうかと。こうした動きからも、この地域の運動が活発であったことが偲ばれようかと。
江戸期までは武蔵国とされた多摩地域ですが、明治になって一時神奈川県とされたことがありましたですね。
このことに触れて、ちょいと前に日野宿交流館展示室を訪ねた折の物思いとして、
自由民権運動の喧しさを鬱陶しく思った明治政府が東京府から切り離したのでは…てな想像をしたですが、
むしろ煙たがったのは神奈川県の方のようですなあ。
神奈川県としては、三多摩にのしをつけて?東京にお返ししたいという思惑があり、
一方の東京府としては都市部の水事情を安定化するためにも、西多摩郡に属する羽村に取水堰のある
玉川上水を丸抱えするという目論見があり、両者の思惑が合致したのでありましょう。
明治26年(1893年)、三多摩は東京に戻されたということです。
ここで、「三多摩」と言いましたですが、これは北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の3つのことですけれど、
(今では行政区分の名称として残るのは西多摩郡だけ)かつては東多摩郡というのもあったからこそ、
これを除いたまとまりとして、神奈川と東京を行ったり来たりした地域を「三多摩」と呼んでいたのでしょう。
ちなみに東多摩郡を構成したのは現在の中野区、杉並区だそうで、
明治期にも一貫して東京であったことも関わりあるでしょうか、今や平然と23区の内としてあるものの、
要するに中野、杉並も多摩であったとなれば、そのすぐお隣の武蔵野市や三鷹市と
いったい何が違うのいうの?という気にもなってこようかと。
と、話を横道から戻して自由民権運動ですが、とかく明治政府に僻目を向けがちな者としましては、
民主的な政治を理想に掲げた人たちとばかり考えてしまうところながら、その活動には必ずしも穏当でない、
かなり過激なところもあったのですなあ。
展示の中には、運動の活動家が着ていたという鎖帷子(今ならば防弾・防刃チョッキでしょう)があったり、
はたまた演説会場に壮士と呼ばれる人たちが持ち込んでいたらしい仕込杖があったりもしたですよ。
さらに激化した活動の姿として、朝鮮半島に不穏な状況を作り出し、日本と清国の間に生ずる緊張感を縫って
一気に政府の転覆を図るといったこと(大阪事件)もあったそうなのですなあ。
こうした状況もあり、おおっぴらに「自由民権」を唱えにくくなることもあったようで、
印刷物に直接「民権」という言葉を記すことを憚って、「民(みん)」をセミで、「権(けん)」を犬でもって表す、
あたかも江戸期の判じ絵のようなビラも出回ったとか。今となっては展示を見て笑ってしまいそうにもなりますが。
とまれ、二本差しの武士が闊歩し、裏街道を長ドス片手の博徒凶漢が歩き回っていた江戸期から
まだまださほども経っていない時代、幕末の血気は自由民権運動にも流れ込んでいたのであるかと、
束の間、おの時代背景に改めて思いを馳せたりしたものでありましたよ。