多摩丘陵は神奈川県にもまたがっておりまして、その一角にある生田緑地を訪ねたのですな。
見るべきものはあれこれあろうところながら、このほどは川崎市岡本太郎美術館の一点突破ということで。
岡本太郎は母・かの子の実家で生まれたそうですけれど、その生誕地が現在の川崎市高津区にある、
そんなゆかりでもって、生田緑地に美術館が設けられたのでありましょう。
出かけるに決して遠いわけではありませんし、都心方向へ向かうでもないですので、
コロナ禍の続く昨今にあってはもっと早く、否それよりもコロナ発生の以前にもすでに出かけていて
おかしくはない施設であったものの、どうにも足が向くことなく今に至っておりましたが、
それはひとえに岡本太郎に対する、忌避というには嫌ってもおらず、敬遠というには敬ってもおらずながら、
うまく説明のできないもやっとしたものがあったからでありましょうかね。
そうはいっても、先年(2019年)にはわざわざ大阪・万博記念公園に「太陽の塔」を訪ねたではないか…とは
なりますが、これも裏返せば、1970年の万博からおよそ半世紀を経てようやく出かけたわけですし。
子供の頃には、CMで「芸術は爆発だ!」とか「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」とか、
そんなことを言っているおっさんくらいにしか受け止められておりませなんだところ、
「太陽の塔」の現物を目の当たりにし、また昨年には新潟出張時にちょうど開催中であった展覧会
「岡本太郎展 太陽の塔への道」を見たりしつつ、遅まきながらだんだんと岡本太郎の考えるところに
追いつくことができてきたといった気がするのでありますよ。
70年万博のメインテーマ「人類の進歩と調和」を前に、これをポジティブに捉えて未来を見据えた形で
お祭り広場に大屋根を架けようとした丹下健三に対し、「人類は進歩も調和もしていない」として
その未来志向の大屋根を突き破って「太陽の塔」を屹立させるよう求めた岡本太郎。
太郎に言わせますと、調和というのはむしろせめぎあいなのだということになるようですなあ。
一般に「調和」という言葉が醸す平穏な感覚、普通はポジティブに捉えるところでしょうけれど、
この一般的な認識は「ぬるま湯につかった」とも形容できるような安穏な「状態」と、
太郎は考えたかもしれません。これをせめぎあいと表す太郎の側に立ってみれば、
せめぎあいがあって、結果それが収束へと向かう動き、「動作」として考えたのであるかなと。
音楽に擬えることが適当かどうかですけれど、協和音は耳に心地いい、不協和音はとげがある、
であるから、協和音ばかりを聴いているのは単にぬるま湯につかった状態なのでしょう。
これを動的に見れば、不協和音から協和音へと移行した瞬間の心地良さは
単に協和音を聴き続けている以上のものがあるのではなかろうかと思うところです。
一方、「人類は進歩していない」という点を端的に説明する太郎の言葉としては
「機械の奴隷になってしまっているだけ」というのがありますなあ。
ヒトは道具を作り、機械を作って、それを進歩と見てきたわけですけれど、
気付いてみれば機械の動きに人間の方が追いまくられるようになってしまったことは
すでに1936年にチャプリンが映画『モダン・タイムス』で描いたとおりかと。
美術館所蔵の岡本作品にも、『モダン・タイムス』と通ずるような機械文明批判が現れたものがありますね。
でもって、太郎がひとつの理想社会と考えたところに「縄文」があるわけですけれど、
上の作品で左側の大きな歯車の下に描き込まれた「葱」は、もしかすると自然との共生の象徴なのかもです。
(もっとも、ネギが中国から日本に伝来したのは奈良時代のようではありますが…)
ということで(満を持してとまでは申しませんですが)いよいよ訪ねた岡本太郎美術館では、
TVで露出されてきたうわべの「岡本太郎的なるもの」の印象とは異なる本質に
またすこし近づけたなような気がしました。岡本太郎の芸術が「わかった」とは言いませんですが、
芸術手法を用いて、時代の風潮に誰よりも批判的の臨んだ姿を忘れてはいかんなあと思ったものです。
「太陽の塔」の中でも見かけた岡本作品の「ノン」。
大きな両手のひらを前面に見せて、体いっぱい「否」を突き付けている、
このキモカワ?な被造物とともに、岡本太郎の批判的精神を心に刻んでおこうと考えたものでありました。