現在の武蔵国分寺は国分寺崖線に沿ってあるようで…と申しましたですが、

やはりそうした関係でしょうか、あたりにはあちらこちらから水が湧き、これを集めた小川が流れているのですな。

環境省の名水百選のひとつにも数えられる「お鷹の道・真姿の池湧水群」というもの。

お鷹の道は、やがて野川に合流するせせらぎに沿って作られた遊歩道でありますよ。

 

江戸時代の寛永元年(1748年)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応三年(1867年)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。
国分寺崖線下の湧き水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか「お鷹の道」と呼ばれ、昭和47~48年に国分寺市がゆうほど同して整備しました。

名前の由来を含めて解説板にはこのように記されておりましたが、

もそっと都心より、三鷹市の「鷹」も鷹場に由来しているということですので、

武蔵野の原はもっぱら鷹狩りの場所だったのでしょう。

つまりは自然のままに人工的なものは何もない野っぱら、雑木林が広がっていたことでしょう。

 

 

とりあえず、遊歩道に沿って進んでいきますと、

左手(国分寺崖線側)からひとつ、別の流れが合わさる地点がありました。

斜面になっていますので、いささか勢いよく流れ落ちてきています。

 

 

で、この流れをちょいと遡ったところに、「真姿の池遊水群」の解説板が建てられておりました。

「真姿の池」という名前の由来は、古い言い伝えにあるようですな。

嘉祥元年(848年)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて二一日間参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになった…。

ここに出てくる玉造小町というのは(特に説明されていないのは、個人的に知らないだけで有名なのかもですが)、

平安時代に書かれたとされる『玉造小町子壮衰書』の主人公でしょうかね。

岩波文庫の一冊となって、タイトルに「小野小町物語」と添えられていることから、

玉造小町=小野小町という受け止め方があるようで、能の「卒都小町」の着想も同様のようで。

とまれ、絶世の美女とも言われた方は全国各地に出没するようなですなあ。

 

 

でもって、傍らにある「真姿の池」には透きとおった水が湛えられておりましたよ。

ただ、辺りでは「水口八十八カ所」と言われるほどに湧水地点が多いとされているわりに、

水面を眺め渡したところでは池の下から湧き出しているというふうではなかったような。

さすがに富士の伏流水が出てくる柿田川湧水とは比べられてもねえ…というところかと。

ま、今回は湧き出ている箇所に気付かなかっただけかもしれませけれど。

 

ちなみに、池から直にではなくして、せせらぎの方からですが、水を汲んでいる方がいましたなあ。

2リットルのペットボトルにして10本くらい、自転車の前後に山と積んで帰っていきましたけれど、

もしかすると玉造小町にあやかりたいということでもありましょうかね。

 

もっとも、ここでの採水は本来不可だと思われますので、

禁忌の水を飲んだ挙句…といった、別の言い伝えでもありそうな気もしますが、

まあ、湧水の採水不可は、自治体として「飲用を保証していませんからね」ということで、

自己責任でお願いしますの意かもしれませんですけれど…。