「真実はいつもひとつ!」と、コナンくんがTVアニメで言ってますけれど、

どうやら原作やアニメ本編の中では出てこないセリフだとか。ネット上には、そんな話が出てましたですね。

 

コナンくん本人も(というより、作者がというべきかもしれませんけれど)「真実はいつもひとつ!」って、

なんとなく違うよねえ…と思っていて、TVの宣伝担当か誰かが「これ、かっこいい決めゼリフでは!」と

言わせてしまったのかもしれませんですねえ。

 

「なんとなく違うよね…」という点では、TVドラマ『ミステリと云う勿れ』の第1話か第2話で

主人公の久能が「真実はひとつなんかじゃないですよね」と、きっぱり言っておりましたなあ。

何が真実であるか、人によって見方、受け止め方が異なるところから、その人、その人で

これこそ真実ということが異なっている。もっともな話です。

 

これと同様に、何が正しくて何が間違っているのかも、

人によって見方、受け止め方が変わるものであるなあと思ったりするところです。

たまたま図書館の新着図書コーナーで見かけて手に取ったポール・オースターの

『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』を読んで、そんなことを考えたりしたのでありましたよ。

いささか季節外れではありませうけれど…。

 

 

舞台はニューヨークのブルックリン。あるとき、街角の煙草屋で盗みを働いた青年を店主のオーギーが発見、

脱兎のごとく逃げ出した青年を追いかけるも、途中であきらめ…たところが、

どうやら青年が財布を落としていったらしい財布を拾い上げるオーギーでありました。

 

なんとまあ、財布には免許証が入っていたことから、ロバートという犯人の名前も住所も丸わかり。

まぬけな犯人の出来心を思うと、財布を返しに行ってやろうかと思うオーギーでしたが、

ついついそのままに日を送っているうちにクリスマスが近づき、ようやっと「出かけてみるか」と。

 

訪ねた先で現れたのはロバートの祖母らしき老女でしたが、どうやら目が不自由ならしく

開口一番に「ロバート?」と声を掛けられたオーギー、考えるいとまもなくそのままに

ロバートとしてアパートに入っていくのでありました…。

 

元々、短編で話に大きな変転があるわけではありませんですね。

クリスマス・ストーリーらしい心温まるところがあることから、昨2021年のクリスマス時期に

日本オリジナルの絵本として刊行された一冊のようです。

 

ただ、「クリスマスにはクリスティーを」ではありませんけれど、

すでに話はすっかり頭に入っているのに、その時期に決まって手に取ってみたいものがあったりも。

 

この一冊は特に、ストーリーもさりながら、ほぼほぼ手のひら(を広げたくらいの)サイズという

手に取りやすい絵本という体裁になっていますので、なおのことを手元に置いて折に触れて取り出す、

そんな接し方が実にしっくりいきそうなものになっているのでありますよ。


ところで、おばあさんを孫のロバートとして迎え入れられたオーギー、

そのまま話を合わせて、互いに孤独な者どうし、クリスマスの夜を過ごすのですが、

果たしてこれはいいことであったのかどうか。騙しただけではなかろうか。

はたまた、おばあさんの方でも実は気が付いていたのではなかったろうか。

気付いていたならば、騙したのはどちらなのか…。

 

オーギー視点で考えることあり、想像にはなりますけれどおばあさん視点で考えることもあり。

これだけならば、むしろ良いことをしたのではと思うところながら、言い忘れておりましたが、

おばあさんの目が見えないことに乗じて、なぜかバスルームに積んであったカメラの箱の山から

オーギーは1台、失敬してきてしまうということもあるのですなあ。

さて、果たしてオーギーの行いは…?

 

おそらくも何も、これでオーギーに対して「とんでもないことをした!」と憤る向きは

およそ無いでしょうなあ。カメラを失敬してきたことにフォーカスすれば、

あたかも木乃伊取りが木乃伊になったようなものではありますけれど、

もしかするとこのことにもおばあさんは(寝たふりをして)気付いていたのかもとも…。

 

とにもかくにも、行った事実の羅列、それはそれとして、そのときどきにどういう捉え方があったかという、

人それぞれが語る真実はいずれも真実ではあろうかと。

おばあさんにとって、その真実が「違う」と誰かに指摘されたところで、

得心のいくことはないでしょうし、うれしくもないことになりましょうから。