「親ガチャ」てな言葉が一般化したのは比較的最近のことなのですかね。

もともと「子供は親を選べない」という言い回しが昔からありましたし、

「ガチャ」の元となったいわゆる「ガチャガチャ」も昔からあったわけで、どうして今頃とも。

 

まったく知らなかったですが、インターネット利用のゲームの中に「ガチャガチャ」を模したものがあって、

それが(まあ、若年層にでしょうけれど)認知されるの及んで、「ガチャ」という言葉の使用頻度が上がった結果、

何が出てくるわからない(大方、予想に反した結果となるのがガチャガチャの常でもありましょうが)ことと

昔からある「子供は親を選べない」ということと(言葉というよりも意識の点で)結びついて生まれたのが

「親ガチャ」なのでもありましょうかね。

 

最初聴いたときには、その語の持つ語感の軽さから、いささかふざけたニュアンスでもあるのかと思ったですが、

よくよく考えてみると実は深刻な側面があるのかなとも思ったり。まあ、言葉の広がりに際しては、

ふざけた感のもとに便乗した使い方も多くあるのでしょうけれど。

 

と、やおらかようなお話になりましたのは、

レバノン映画の『存在のない子供たち』(2018年)を見たからでもありまして。

 

 

レバノンの首都ベイルートのスラムに家族ともども狭いアパートに暮らす少年ゼインが主人公。

12歳というわりに、体格的にはもそっと幼く見える一方、その外見としては自律的に行動する印象かと。

まあ、ストーリーそのものは(肝心な点ではありますが)映画関係のサイトなど別のところに譲るとしまして、

紆余曲折を経て、このゼインが両親を告発することになるのですなあ。

「自分を生んだこと、それ自体罪である」として。

 

もちろん脚本が言わせていることなのですけれど、これを12歳の少年に言わせること、

これは重いではありませんか。「親ガチャ」の外れを引いてしまった己を嘆くというレベルを突き抜けて、

自分を存在させてしまったことが罪であると糾弾する、この第三者感。愕然とせざるを得ないわけです。

 

そりゃあきっとレバノンのスラムあたりは状況的に酷いものであろうとは、

映画の中でもつぶさに描かれるところですけれど、たぶんゼインに告発された両親にしても、

ゼインほどの言葉を持たなかったにせよ、子供のころには「親ガチャ」の外れを引いたと思ってもいたろうかと。

この連鎖にもまた愕然とさせられるのですよね。

 

もちろんこれとの比較でもって、日本での「親ガチャ」外れ感をどうのこうのいうつもりはありませんですよ。

どちらがより酷いのかと言っても詮無い話でしょうから。それぞれに現象への対処ではなくして、

原因を見極めて考えていくことが必要なのでしょう。

 

お門違いかどうはともかく、こうした思いに沈むとき、

先月に再放送されていたEテレ『100分de名著』の『資本論』の話を思い出したりもしますですね。

貧富の「貧」が存在してしまうこと(翻って、なぜに過大な富者も存在してしまうのかでもありますが)、

それが社会構造の結果である可能性があるのならば、それを変革する必要があるものと考えるのは

自然なことなはずながら、どっぷりつかった資本主義からなかなかに踏み出しにくくなってしまっている。

 

番組では、ひとつの結果として環境問題に言及していましたけれど、

歪みはまた別のところにも出ていて、正されるどころか、さらに酷くなりつつあるような。

ちと風呂敷を広げすぎた話になってしまったものの、そんなあれこれを思い巡らしたものでありましたよ。