本来はフランス語の小説で作者はアキラ・ミズバヤシ、日本語訳の訳者は水林章…と、
この二人は同一人物なのですなあ。つまり、作者がフランス語で書いたものを、
本人たる訳者が和訳するというややこしい?構造となっている小説だったのですなあ。
タイトルは『壊れた魂』、これがあの(!)みずず書房から出ているとなれば、
どれほど深い哲学的な物語でも展開するものかといささか臆しながらも手に取ったのでありました。
しかしまあ、かほど案ずるには及ばず、表紙カバーにヴァイオリンが見えるとおりに
全編に音楽が、それもヴァイオリンの音楽が溢れているのでして、実のところ、
壊れた魂、それはひとつに壊れたヴァイオリンの魂柱のことでもあるわけなのですな。
太平洋戦争前夜の日本、「アカ」の疑いをかけられて憲兵隊に連れ去れらた男性は
その後二度と姿が見られなくなった。あとには、連行のごたごたの中で叩き壊されたヴァイオリンと
天涯孤独となってしまうひとり息子を残して…。
息子・水澤礼は父の友人であったフランス人に連れられてフランスに渡り、
以降はジャック・マイヤールというフランス人として育ち、長じては弦楽器の製作者となるのですな。
そして父の残した、魂柱まで砕けたヴァイオリンの修復に心血を注ぐことになるのですが、
果たしても修復されるのはヴァイオリンだけでありましょうか。
お話の根底は、再生の物語でありますね。ヴァイオリンはもちろんのこと、水澤礼自身の魂も。
そして、作者の意図はこうした物語を通じて、反戦を語ることでしょうか。
理不尽なほどに自由意思を圧殺する天皇制ファシズムに対する憤りともいえるものはエピローグの最後で、
もはや書かずにはいられないという調子で記されていくわけです。
ですが、ここに至っていささか消化不良感を残すことにもなってしまいます。
物語の展開上(突っ込みどころが無いとは申しませんが)よくできたお話になっている中、
作者の思いの丈はすでに感じられるようになっているところながら、
これをあえてはっきりと言葉(文字)にされたところを目の当たりにしますと、
ダメ押しのおなか一杯感になってしまうように思えたものですから。
そんなときにふと思い出しましたのが、
昨年10月にEテレ「100分de名著」で取り上げられていたヘミングウェイの小説作法、
ひたすらに言葉を削いでいくというあたりでありますよ。
そこには「語らない」文章の奥深さが感じられたものでして、それとの対比において…というわけです。
考えさせられますなあ。
ま、それはそれとしてクラシック音楽を愛好される方には
ヴァイオリン絡みの曲が場面場面で数々登場し、「なぜこの曲?」などと思い巡らすのも一興かと。
あたかも切って捨てたかのような物言いだったかもしれませんですが、それだけではないところはあると
忘れずに付け加えておくことにいたしましょうね。