十二月も半ばを過ぎて、寒くなっておりますなあ。
年の瀬を控えて日本吉例の「第九」シーズン、2021年も読響の演奏で聴いてきたのでありますよ。
吉例と言いつつも、昨年は(公演自体はありましたけれど)年明け早々に緊急事態宣言が出される、
その直前の頃合いだっただけにパスしたのですけれどね。
出かけた友人の曰く、合唱の人数を控えめにしていたと聞いておりましたが、
おそら今回も昨年同規模だったのではなろうかと思うところです。
もっとも人数が少ない分、出演者それぞれが頑張って(しまって?)いたのか、
これまで接してきた「第九」で感じる声の「圧」には遜色がなかったような。
ま、ご時勢的にはそれだけ声を張り上げることがいいのかどうか、いささか微妙な気もしますですが…。
しかしまあ、昨年に比べると気持ちが悪いほどに落ち着いた感染状況が続く中でも、
主催者側はあれこれ大変なようで、今回の公演にあたっては指揮者が二転三転しましたな。
(フランチェスコ・アンジェリコ→アレホ・ペレス→ジョン・アクセルロッド)
結局のところ、アクセルロッドの意向でありましょうか、今まで見たことのない演出(?)で楽しめました。
合唱の面々は第2楽章と第3楽章の合間に登場、終楽章に向けてスタンバイOK状態と見えたものの、
「はて、独唱者たちはどこに?」と。終楽章直前に登場かと思うと、その気配もなく終楽章の始まり始まり。
もしかしても、合唱団に紛れて登場しておったのであるか?はたまた、歌いながら登場したりしてね…と、
「なんてね」的思いを抱きつつ見ておりますと、いやあ、バスの歌い出し直前、下手の袖からしずしずと、
さりながら発声時にはばみった場所まで到達していなければと最終的にはいささか小走りに、
バス・ソロが現れたのですなあ。見ている方もちょっと緊張する、ライブ感ある演出でありました。
と、そのうちにバス以外の3パートのソロが上手袖からまたしずしずと。
今回はアルト・パートをカウンターテナーの男性歌手・藤木大地が担当する点も趣向ではあったかと。
(この歌手のことはTV朝日「題名のない音楽会」で見かけておりましたので、驚きはしませんでしたが)
ともあれ、第一楽章から第三楽章までは何だかとても事務的というと変ですが、
妙に型どおりに進む感を抱いたりもしていたところながら、終楽章のこの趣向も相俟って?
劇的な印象がにわかに浮上した気もしたものです。さらには、少なめの人数ながらも感じる合唱の声圧、
こうしたこともあって、今まで思いもしなかったことですが、「第九」の祝典性ならぬ祝祭性を
感じたものなのでありますよ。
祝典であれば祝い事に関わる行事にあって大衆はただただ見聞きする立場ながら、
祝祭、祭であれば大衆もいっしょくたになって祝う的ところがあろうと思ったもので(個人の意見です)。
ですので、「第九」は鑑賞するものではなくして、参加するものなのではないか、
終楽章は演奏の送り手と受け手ということに関わりなく、皆が皆、声を挙げて高揚し、祭に参加する、
「第九」とはそもそういうものだったんじゃなかろうかと思えてきたりしたのですなあ。
そもバスの歌い出しに「O Freunde, nicht diese Töne!」とありますけれど、
これを第一楽章から第三楽章までの、いかにも演奏の送り手と受け手の区分けがはっきりした、
演奏会での演奏らしいところとはこれから始まる祝祭(終楽章)は違うのだ、皆で盛り上がろうではないかと
声高らかに宣言しているようにも、改めて思えたような次第でありますよ。
仮にホール全体で大合唱が行われるとは、現下の状況では不適切極まりないとされましょうなあ。
いつかコロナ禍が終息に至ったとき、そのときには祝祭としての「第九」にこぞって参加しようではありませんか。
(と、いささか高揚気味に…笑)