青森県の三内丸山遺跡を見て回り、出土品は「さんまるミュージアム」の方で見られます…と言って

後半へ続くとしたからには、当然にこのミュージアムのお話になろうと想像されるかも。

 

 

何しろ大きな遺跡ですので展示解説もいろいろあるわけでありますね。

 

 

もちろん出土品もざくざくあったわkで、その一端が展示されているのですが、

実のところ、このミュージアムの展示のお話をしようというのではありませんで、別の方向へ。

といっても、出土品の一点くらいは取り上げておくとしましょうね。

 

三内丸山遺跡で出土する土偶はほとんどが扁平で十文字型をした「板状土偶」と呼ばれてますが、

これはその一つ。ちょっと大きめなペンダント・ヘッドてなところでしょうか。

 

と、一応ミュージアムには触れたところで、話は先へ。

遺跡を見て回りながら、同行者の曰く「縄文の人たちは弥生勢力に押されて、ここに集まっちゃったのかも…」と。

 

三内丸山遺跡は「日本最大級の縄文集落跡」とされるだけに、

ここに縄文の人たちが集まった理由があるわけですね。

もちろん山林の幸が得やすい、海は今よりももっと近かった(やはり縄文海進の影響でしょうか)ので

海の幸も得やすいと、食糧事情が大きく関係していることはあるとして、本州の北のはずれに集住したのは

西から、南からと本州に広がっていった弥生文化の担い手たちが縄文のテリトリーを

(言葉は悪いですが)蚕食していった結果、はずれに集まってしまった…と、そんなふうにも想像したわけでして。

 

ただ、ユネスコの世界遺産登録にあたっては「北海道・北東北の縄文遺跡群」との括りになっていますから、

津軽海峡のこちらとむこうとにはやはり繋がりがあると思えるところでして、そうなると縄文の人たちは

海峡を越えた行き来があったのであろうとも考えたりするのですね。

 

 

ホテルの窓から海峡を眺めやりますと、右に下北半島、左に津軽半島、そしてその間の開口部からは

お天気次第では北海道が望めたりするのでありましょう。今の感覚では、青森港から函館港まで

フェリー(かつては青函連絡船)でおよそ4時間ほどの海峡越えと考えるところですが、

津軽半島や下北半島の先から眺めるならば、もそっと北海道ははっきりと目視できるでしょうから、

縄文の人たちの渡海意欲を十分に刺激するところでもあったようにも思ってしまうわけです。

 

ただそうは言っても、いわゆる丸木舟のようなものしか無かったときに、大した度胸だなあとも。

それだけに現代から想像するようなアドベンチャー精神的なるものが、渡海の動機になるはずもない。

先日の「ブラタモリ」糸魚川編で取り上げられていた翡翠の流通のように、

得難いものを得るというあたりが動機なのでもありましょうかね。

 

ということで、三内丸山の縄文遺跡を訪ねて、かようなことをつらつらと思い巡らしたりしたものなのでありました。