このところドキュメンタリー映画に偏っておりましたので、たまにはドラマでも。

フランス映画「私は確信する」、いわゆる法廷ドラマですけれど、これまた実話ベースでありましたなあ。

 

 

ですが、これってそもそも裁判になるのかしらんと。

妻スザンヌが忽然と姿を消してしまったことに、関与を疑われた夫ジャック・ヴィギエが逮捕される。

そして裁判へ…というわけですけれど、これが妻殺害の容疑、つまり殺人罪で起訴されているわけです。

が、このときにスザンヌの遺体が発見されていませんので、生死さえはっきりしない中で殺人罪が問われるって、

ありなのかなと思った次第です。

 

ただ、とにかくこのお話(といっても実話ベースなのですよねえ)は、ことほどかように被疑者に対して

推定無罪どころか、推定有罪に凝り固まったところからスタートしている。

冤罪事件が起こるのはかくの如しと思えてくるわけです。

 

もちろん冤罪はあってはならないことですけれど、犯罪捜査をする側が陥ってしまいそうなことがあるとは

想像できないことはない。手続きも確認も行って、自分なり(あるいは自分たちなり)に確信を得たならば

「こいつは有罪に違いない」と思い込んでしまうこともあろうと。その段階で、本人たちは思い込みとは考えず、

事実であるという考えから離れられなくなっていましょうから。

 

ただ、そうした思い込みが起こり得ることを前提に、警察、検察、裁判の手順は決められているわけで、

これをも搔い潜ってしまうとすれば、それぞれの段階での思い込みが共通化してしまってもいるのでしょう。

人を裁くことに限らず、権力、権限を持つ立場にあるときこそ、謙虚な、真摯な姿勢が求められるのですけれど。

 

と、ここまではありがちな話(では困るのですけれど)ですけれど、この事件のいただけないところは、

スザンヌの愛人(どうやらスザンヌとジャックの夫婦仲は冷え切って、そのことも動機とされたわけですが)が

夫がスザンヌを殺したいに違いないと(これまた)思い込んで、あちこちにほのめかしの電話を掛けたりするなど、

世論形成(?)を行おうとしてしまうのですな。

 

こういう人は「何が根拠か」はともかくも、それと確信したことをよかれと思って拡散しようとする。

また、安易にそれに飛びついてしまう人たちもいる…とは、今の世の中にたくさん生じていることですなあ。

これって実に怖いことなのですが、溢れかえる情報の中で何を良しとし何を良くないとするか、とても難しい。

ただただ、批判的に考えてみる視点だけは忘れないようにしたいものです。

 

ところで「私は確信する」とのタイトルは、何もこの愛人の確信を言っているわけではありませんで、

ノラというひとりの女性が抱いた「ジャックは犯人ではない」という確信の方ですな。

 

ノラは、ジャックの娘が自分の息子の家庭教師だったという(だけ)の関係にあって、

裁判にあたって腕利きの弁護士に弁護を引き受けるよう拝み倒したり、

自らの仕事を投げ打って裁判の資料集めに奔走したりと、必ずしもそこまで濃密な関係があるでもない中では

いささか尋常でないのめり込みようでジャックの裁判を注視している。

 

考えてみれば、ノラの行動の方も愛人の不穏な動きとは裏おもてで

いずれにしても「自らの確信」という、実は他からみれば危ういものが頼りになっているのですよね。

そも本作の描きたいところはそこではないとは思うものの、気になるところではありましたですよ。

映画の結末は言わずもがな…ですが、釈然としない気分は残ってしまうような…。