国会での質疑により一躍(?)注目を浴びた議員を取り上げたドキュメンタリー映画は

公開時に結構話題になったようで。実際問題、そういうことではいけんのでしょうけれど、

すっかり政治動向への関心が薄れている(もはや無いというべきか)者としては

 小川淳也と聞いて「誰?」というばかりではありますが…。

 

 

その小川淳也という議員に対して真正面から「なぜ君は総理大臣になれないのか」と問う、

それがタイトルそのものであるという見方もできましょうけれど、

政治家という職業の特殊性と言いますか、誰でもなれるわけでもないという、その理由として

一般人とはくらべものにならないくらいの特異な資質が必要だからと考えれば、

「君」というのはごくごく普通の常識を備えた人と捉えることもできましょう。

 

個人的には、むしろそっち方面の観点から見たわけですが、

映像の中にも登場していた政治評論家の田﨑史郎がいみじくも政治家たるものは

常識人などでは務まらない(言葉通りではないですが意味合いとして)てなことを

どこかしらで言っていたことを思い出すにつけ、どこかしら大きな間違いがあるなと。

 

小川淳也という人の政策や政治姿勢を詳しくは知りませんが、

少なくとも田﨑発言とは異なる方向性であろうとは想像できるだけに、

本人の家族が言っているとおり「政治家には向いていない」ということになりましょう。

どんな理想、展望があったとしても、現実の政治家にとってそれは

二の次、三の次だったりもするわけで。

 

政治家、議員は代議士とも言われるとおり、代わって議論する人のことでしょうから、

誰かの代わりに過ぎないことは明らかでありますね。誰って、そりゃあ、国民でしょう。

(どこの議会の代議士であるかによっては、県民であり、市民・区民であり)

 

ですが、実際に行われていることは(この際ひとまとめにして市民と言いますが) 市民感覚に

決して沿ってはいないわけですね。 選挙によって付託を受けているなんつうことも言われますが、

その人に票をいれなかった人(あるいはあきれ果てて投票にさえ行かなかった人)も

たくさんいることはおよそ念頭にないものとして、事は運ばれていくわけです。

 

多数決では51対49でも多い方に決まりますけれど、51の側が「勝ったのだから」と

49の側を全くの無と見做すかのようなふるまいはあっていいものではなかろうと、

そんなことを映画の中では小川も言っておりましたなあ。この点は大いに頷けるところです。

 

小さい単位で始まったヒトのコミュニティは何をするにも話し合い、

納得づくで事は運んだものであろうところが、集団が大きな括りになるにしたがって、

構成員による直接的な話し合いを持つことが難しくなった故に代議士というありようは

生まれたものでありましょう。直接民主制から間接民主制への移行ですな。

 

ところが、今のご時勢、誰もが直接的に関与するという方法が無いではない。

システム的、技術的にやってやれない状態ではなくなったおりますね。

そんなときに、間接民主制を見直すことがあったとしても少しもおかしくはないわけです。

 

そんなふうに思うのも、合意形成というプロセスがあまりに軽んじられているからかも。

選挙の時だけ「お願いします」、「手をかしてください」てなことを連呼するも、

いざ当選すれば「おれさま」に早変わりするのですものねえ…。

 

だらだらと書いてしまいましたが、具体的な話になるとそれぞれに考えるところはありましょうけれど、

少なくも、漠然とでも「何かおかしくない?」と感じたとすれば、それだけで

そう感じた人はおそらく総理大臣にはなれませんですね。

そういう世の中がいいとは思えませんが、どうでしょうかね…。