先に、東京・立川市の昭和記念公園の片隅にある花みどり文化センターで
あれこれ展示を見たわけですが、「関東甲信 景観さんぽ」という展示もありまして。
「関東甲信の1都8県内の自治体が主催するフォトコンテストの入賞作などを展示」する企画で、
第3回ということは毎年やっているのでしょうか、そして関東地方の5会場を巡回する中での開催とか。
関東甲信1都8県の景観を被写体として、山、花、雪…と自然豊かな景色が切り取られておりましたよ。
このところ昭和記念公園に出かけても(無料入園地域にある)花みどり文化センターの展示を覗くばかりで、
四季折々の草木のようすが楽しめるエリア(入園料がかかります。笑)に足を踏み入れておりませんでしたが、
かような写真作品を見かけてみれば、折しも秋の入り口に差し掛かり彼岸花も咲き始めたしということで、
写真でも撮りに出かけてみようかと。
ところが、出かけたついでに取りあえずと、花みどり文化センターを覗いてみれば、
「景観さんぽ」の写真展は続いているも、それ以外の展示がすべて変わっていたものですから、
ついつい眺め込んでしまい、当初の写真撮影という目的もどこへやらと…。
ともあれ、展示替えとなったところには「写真もいいけど手描きもね」てなもので、
「昭和記念公園 風景スケッチ展X ~風景の中の私~」というコーナーがありましたな。
「写真を撮る」というのは、フィルムカメラからデジタルカメラへ、
はたまたカメラ機能が携帯電話やスマートフォンに搭載されるに及んで、ものすごくお手軽になりましたですね。
スマホを入り口にして、巨大デジタル1眼へと鞍替えする向きも、ままあろうかと思うところです。
フィルムでなくなったことで、現像しなくても取れ具合が確認できますし、何度でも撮り直しが可能、
そんなあたりが写真を撮るという行為の敷居を下げた由縁でしょうか。
もちろん、インスタグラム(個人的にはおよそ見たことはありませんが)ほか、
手軽な発表の場があることも理由の一つでしょう、それだけに町なかでも写真を撮る人の存在は
珍しくなくなっているわけですが、一方で昔からごく一定数、根強く残るのはスケッチをする人ですなあ。
なかにはイーゼル持参でなどという人もいるわけですが、
ほとんどはさほど大きくないスケッチブックを開いて、すいすいっとデッサン、ささっと水彩てなことかと。
写真とスケッチ、両者ともにそこにある風景を切り取って、一定画面の中に落とし込んでいますけれど、
展示なども眺めやりつつ思うところは、この二つは違うよなあということ。当たり前なんですけどね。
写真は文字通りそのままを写すことですが、そのままというのが
もっぱらカメラという機械と、目という機能を通して得られるありのままの情報といいましょうか。
ですから基本的には固定てたカメラのシャッターを押すのが、誰であっても同じ写真が撮れることになりますな。
一方で、スケッチの方はそうではないわけです。何せ写し取るのはそれぞれの人ですのでね。
まあ、カメラという撮影機械の個性の違いは写真の出来に関わるにせよ、人という写生機械?を通すと
アウトプットはそれ以上に大きく異なるでしょうから。
ですので、人がアウトプットする絵画作品が「写実的であるか」あるいは「写実的という言葉が許容され得るか」、
これについては描き手と(傍目から覗き)見る者との間に認識の違いがでましょうなあ。
描き手は「ありのままに描いている」と思い、見る側は(密かに)「こんなんじゃない…」と思ったり。
実は子供のころ、夢中になってお絵描きをしていたのですよね。
幼稚園では他の子よりも、お絵描き帳消費がかなり激しい状況でして。
たぶんこのころは、いわば無心でクレヨンをふるっていたのだと思うのですが、
それがどこでどうして刷り込まれていったのか、他人の見る目を気にするようになってしまったようで。
そうなると、何かを写し取って「似てない」と見られるのが嫌になる、恥ずかしいと思ってしまい、
だんだん描けなくなって、というより描かなくなってしまったようですね。
その後、小学校の図画工作、その後の美術の授業などでは、
本物そっくりリアリティーの呪縛に囚われ続けて、無心に立ち返ることはありませんでしたなあ。
これはその当時から分かっていたのでなくして、今振り返るとそういうことでもあったろうかと。
確かに美術教育では石膏デッサンが基礎を築くことになるのでしょうけれど、
美術の専門家を育てるのと、美術への理解を通して人生を豊かにするのとではそれぞれ関わり方が違うとなれば、
何をどう教授するかも変わってくるところでありましょうに…。
そうはいっても、自由にのびのび描き続けていた人たちはいたのですから、ただの難癖かもですが、
ともあれ、今さらながらに手描きのありようを考えてみることにはなったわけです。
写真があるから、写生はいらないということにはなっていない。
それどころか、写真には写真の、写生には写生のありようがあることを今さらながら
改めて思い至すことになったものでありましたですよ。