辞書作りが大変そうだということは『舟を編む』(小説は未読ですので映画です)を見ても窺えるところですが、
映画「博士と狂人」に描かれたオックスフォード英語辞典の編纂はこれまた何ともやっかいなものでしたなあ。
言葉を扱うことには高邁さがつきまとうということになりましょうか。
そもいったいどんな人物が編纂に当たるのかが問われたりしているわけです。
役割としては打ってつけな人材であるとしても「出自がね…」てなことで
仕事そのものが妨害されるかのような状況に立ち至るのは、いかにも19世紀の英国らしくもありますが。
さらに辞書編纂に付き物の用例探しという、非常に時間がかかるであろう仕事への協力者が
獄中にある人物とあっては、辞書の、オックスフォードの品格が問われるてなことにもなるわけで。
それでもこれ、実話ベースの話なのですよねえ。
日本ではそこまでの品格のようなものは気に掛けられてはいないようにも思うところですけれど、
差し当たり英語の辞書作りでは今でもたくさんの横やりが入るようですなあ。
それだけ「辞書なるもの」への意識が強くあるということかもしれません。
投書(今ではEメールでしょう)に曰く、「なんだってこんな下卑た言葉を載せるのだ」、
「この語釈は誤りではないか」、「掲載された用例よりも古く使用された例を知っている」、
「そもそもの語源は実はこういう話なのだ」などなどなど。
辞書編纂という本業の傍ら、こうしたご注進に対応するのは酷く疲れる作業でしょうなあ。
そんなようすが窺い知れる一冊を読み終えたところでありますよ。
『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』という一冊、同じ辞書編纂ではありますが、
こちらは英国でなくしてアメリカの老舗辞書出版社でのお話です。
現役で編纂に携わっている著者ならではの思い巡らしや愚痴(?)が満載で
とても興味深くはあるものの、もそっと英語の知識があった方が楽しめたかなとは思ったり(苦笑)。
例によって今さらながらの気付きとしては、
辞書作りに携わるような方々は言葉そのものや言葉遣いに関して厳格なのであろうなと思っていたのは
どうやら思い込みであったようで。厳格なところはもちろんあるにせよ、そればかりではなく、
柔軟な受け止め方をしなれけばとても務まらない。この点では、先日『日本人と漢字』を読んで、
実はこだわっているようで、頑なだけなのはどうもいただけんのだなと自戒に及んだことを
改めて思い返したりしたものでありました。
そのあたりにぴしりと斬りこんだ本書の言葉を少々引いておくとしましょうか。
自戒しても、(昨今の老人力たくましい折から)すぐに忘れてしまうかもしれませんので。
文法学者や衒学者などが言うところの「標準英語」とは、その活用のほとんどが柔軟性に欠けた架空のプラトン的理想に基づいたひとつの方言にすぎない。
英語は(好むと好まざるとにかかわらず)新語が生まれやすい言語で、インターネットが発達したおかげでそのような言葉が(これも好むと好まざるとにかかわらず)あちこちに広まりやすくなっている。
語源妄信ほど最悪の衒学はない。無意味な個人的見解を大げさに言い立てて、歴史の本質を保護すべしと憂いてみせる。言語は変化する。そこに欠けているのは、言語は変化するということこそが歴史の本質だという事実である。変化をしない言語は死語だ。
例えば3つ目の引用に関しては、「decimate」という単語を取り上げておりますな。
古代ローマで叛乱が起こったりした場合に、10人に一人を選んで処刑したことを語源とするようですが、
それはなるほど「deci-」というあたりに表されていると、英語に通じていなくとも想像されるところです。
元はそういう所から出たこの言葉は、後にジェノサイドという語を思い浮かべるような多数の殺害を表すようにも
なっていったそうなのですよね。歴史的な用例をたどっていくと、実際にそれが分かると。
ですが、「decimate」の語釈に「多くを殺す」といったことが示されているのはおかしいと投書が来るようで。
「そもそもは古代ローマで…」と(どこかしらからの受け売りなのか)説明まで添えてあるそうですな。
これを読んだときに「そこまで遡ってこだわる?!」と思ったりしたものですが、
考えてみれば五十歩百歩のことを、これまで個人的には思い続けていたのかもしれません。
「変化をしない言語は死語だ」とは、実際そのとおりでありましょうね。
変化をしないのは使われていないからこそでしょうから。
日本語においてをや。そういうつもりで言葉に接する心づもりでいられるよう努めます(笑)。