ドイツ人が思索を深めるのは、どんよりした空模様が多く内省的にならざるを得ないから…てな話を
耳にすることもあるわけですが、その気分が分かるような気のする日々が続いておりましたですなあ。
それだけに話題も重いものになりがちのようでもあり…。
今日からは夏の陽気が戻って来るようではありますけれど、
その前にひとつ、またちと考えを巡らしたことなどを。
といって、陽気に関わらずそんな話が多かったりもするわけですが(笑)。
TV番組のお話は例によって遅ればせのタイミングとなりまして、
先日放送されたNHKの終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」を見たのですな。
遠藤周作が小説『海と毒薬』でも扱った九州大学生体解剖事件に関するドラマでありましたよ。
よく知られているものと思いますので、事件のあらましは記すまでもないでしょうけれど、
本作では軍部や病院の上司に異を唱えることができず、
生体解剖に携わってしまった助教授の医師・鳥居が主人公になっておりますな。
実質的に解剖を主導した教授が戦犯として逮捕された後、裁判を待たずに自殺してしまったことから、
関係者の中では次席の位置にあった鳥居(妻夫木聡)が一切の責任を負わされることになって、
横浜軍事法廷(主にBC級戦犯の裁判を扱った)で絞首刑の判決が下されることに。
さりながら、鳥居は従属的な立場に過ぎず、刑が重すぎることを妻は主張し、
証拠・証言の積み上げに努力するわけですが、巣鴨プリズンに収監中の夫に接見しても、
どうも心ここにあらずといったようすなのですな。
やはり戦犯として処刑を待つ立場にある陸軍中将の岡島のひと言がひっかかりの元であるような。
岡島の率いる部隊で米軍捕虜の殺害が行われたのですが、
岡島自身は手を下してもおらず、また命令をしたわけでもなかったことを聞いた鳥居は
「なぜ岡島さんは?!」と問いかける。これに対して、岡島はひと言、
「何もせんかったという罪もあるのではないでしょうか」と。
これが鳥居に逡巡を呼ぶのでありますよ。
「自分はなぜ生体解剖を止めなかったのか」
このことが常にひっかかっていた鳥居ではありますが、自らが主導的立場になかったこと、
戦時下の同調圧力には対抗しきれないものがあったことなどから、
「しかたがなかった…」として自ら蓋をしてきた思いが、再び開かれたと言えましょう。
ただ、ここでひとつ考えを巡らしておいた方がいいと思われますのは、
岡島の責任の取り方というか、身の処し方についてではなかろうかと。
ともすると、指揮官のあるべき姿のように捉えてもしまいそうに思うところながら、
日本で作られる戦争映画(あるいはドラマ)にありがちな「男は黙ってサッポロビール」のような。
多くを語らない(逃げ口上を弄さない)点がじんわりさせる元にもなっておりましょうけれど、
これはともすると自身にとっての引き際の美学になってしまっているかもしれません。
何故責任を取らねばならないのかを考えたとき、
そして(量刑の多寡との関わりではなく)確かに責任があると自覚的に判断できるとしたならば、
そうした責任を取らなくてはならなくなった事態を繰り返さないための何かしらの言動こそが
求められる姿なのではなかろうかと思うところです(実に、実に言うは易しですけれど)。
と、ドラマを見終えた段階では、「しかたなかったと言うてはいかんのです」という言葉(タイトル)からも、
不作為の罪といった方に話は向いていくかなと思って書き始めたのですけれど、そこに至る以前に
すっかり長くなってしまいました。ま、そちらのことはまた別の機会に触れることになりましょう、そのうちに。