いわゆる「エコ」に関連して壮大な?人体実験が各所で行われて、

例えばしばらく前に見た「365日のシンプルライフ」とか、ドキュメンタリーになったりもしておりますなあ。

 

ここでのシンプルライフの試みは、自宅にある品物(それこそ服から何から一切合財)を

まずはレンタル倉庫に移してしまい、丸裸の状態から1日にひとつだけ倉庫からモノを持ち出せることを

1年間にわたって実践するというものでありました。

 

真冬のヘルシンキでの実験であるのに丸裸とは、とにかく服、コートは必須ですなあ。死んでしまいます。

されどだんだんとモノを持ち出して増えるプロセスでは取捨選択の目が厳しくなっていく面もあるようで。

本当に持って行きたいのはこれ?と。モノに溢れている中での考えとはおそらく全く違う考え方に

至っていたのではなろうかと。

 

と、そんな「365日のシンプルライフ」はEテレ「ドキュランドへようこそ」で放送されたときに見たのですけれど、

先頃同じ番組で放送された「究極の地産地消暮らし 1年間の家族記録」もまた、壮大な実験であったような。

 

カナダのユーコン準州といいますから、もはやかなり北極圏に近いわけですが、

そんな寒そうなドーソン・シティという町で暮らす一家の挑戦を取り上げておりましたよ。

 

町へ続く一本道が雪崩で封鎖された折、スーパーに人が押し寄せ、あっという間に食料品が

すっからかんの状態になったのを見たスザンナさんは究極の地産地消構想を思い付くのですな。

「町で採れる食材だけに頼った暮らし」はできないものだろうかと。

 

夫も子どもたちも今普通に食べているものが食べられなくなることからと、

当初の反応は鈍いものの、スザンナさんの思いはことのほか強く、

しぶしぶ一家は地産地消生活を過ごすことになるのでありますよ。

 

まずは買いためてあった食料品をすべて捨ててしまうところから。

そして、野菜は自家菜園と近所の農家から買えるもの。

魚はユーコン川で釣り上げたキングサーモン、肉は悪戦苦闘の猟で仕留めたヘラジカなどなどですが、

シリアルもサンドイッチも食べられないことに不満を隠せない子供たち、

大のアイスクリーム好きであるらしい夫もかなり寂しそうな状況に至るのはあっという間でありました。

 

徹底しているのは塩、砂糖といった調味料の類までも地元で手に入れられるものにこだわって、

実は野菜などの素材以上に、この調味料の入手に手を焼くのは想像するだけには思い至らない点かも。

 

とまれ、そんなようすを見るにつけ、こんな寒い、つまりは実りが豊富とも思われない土地にヒトが住むのは

物流が確保され、通貨があることによって必要なものが買えることが前提になっているのではと思ったり。

ドーソン・シティの「そもそもは先住民ハン族が夏季漁のために宿営地として使っていただけだった土地だった」と

Wikipediaにはあるくらいですし。

 

大昔の人々は、それこそ地産地消(多少の交易はあったにしても)できる場所でなければ住まうことも

なかったものと思いますので、生産の場と消費の場は不可分であったのですよね。

 

縄文人の集落が一定時期の定住のあとに放棄され、別の場所に集落が営まれるのは、

生産の場としての適切性が失われたことにもよろうかと。

もっとも採れるものを採りつくしてしまったとも考えられますが、一方である程度採ったので、

後々資源の復元に期待して、採りつくさずにはおこうということかもですが。

 

番組タイトルに「究極の」と付いているのは、生半可(?)な地産地消ならば誰にでもできるわけで、

現代の流通システムに頼らずに必要なものを手に入れることがいかに難しいかを示してもおりますね。

ただ、いくら究極とはいっても、原始人的なる生活を意図するのではなく、狩りには車で移動して銃を使う、

釣りにはモーターボートを使うということはあるわけです。誰もそこまでのことには触れません。

 

ですが、とことんの究極を目指すとなれば、まさに太古の人々の暮らしを再現することにもなりましょうか。

例えば温室効果ガスの排出という点では、そうなれば限りなく減らせるでしょうし。そんな考えも浮かぶ中、

「いくらなんでも無理でしょう、だから…」といって何もしないというのは、また考えものでもあろうかと。

 

無理をすれば投げ出す可能性は高くなり、元も子もないのですから、ほどほど感を持って少しずつというのが

発想としては妥当なところなのかもしれません。

ただい、そんなふうにヒトがほどほどにすこしずつと考えて行動するのを、

地球の健康回復は待っておられないかもしれませんけれどね…。