ドキュメンタリー映画のありようとしては、そこで起こるイベントを記録することでもありましょうから、
ある意図を持って撮り始めたものが途中で大きく方向転換せざるを得ないこともあるのではなかろうかと。
映画「クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落」は、全米指折りの大富豪の生活を追いかける中、
予めこの家族にリーマン・ショックで転落が起こるとは予想していなかったでしょうし。
もちろん「大富豪の華麗なる転落」との副題は日本公開時のオリジナルでしょうけれど、
ただただ「クィーン・オブ・ベルサイユ」というタイトルでは(原題はそうなのですが)、
あたかもマリー・アントワネットを描いた映画かと思ってしまいますものね。
リゾート・マンションの共同所有権(つまりは会員権?)の販売で財を成した不動産王の家族を追いかけ、
庶民感覚とはド外れたお金の使い方にはもはや笑うしかない…てなところかと。
住まっている2500㎡の邸宅が手狭になったからと、ベルサイユ宮殿を模した8500㎡の大邸宅を建設中。
それゆえの映画タイトルだったのですな。
そんな大邸宅に、やがてクィーンとして君臨するはずのジャッキー夫人は建設現場を訪ねては、
ここにはこんなもの、あそこにはあんなものと装飾に夢を膨らませているわけですが、その金銭感覚はまさに
マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ってしまったようなずれずれ感。
(もっともこの言葉を本当にアントワネットが言ったのかどうかは疑わしいようですが)
しかも、期せずして起こったリーマン・ショックによって大邸宅の主となる夢は潰えるという、
転落度合いもまたアントワネットっぽい気もしますが。
家計の状況もまた破綻寸前になっていることはさすがにジャッキー夫人も認識しているものの、
我慢と言いながらそれでもなおかつスーパーでの買物のようすはいわゆる「爆買い」としか見えない。
このあたり、レンタカーを借りなければならなくなった時に「運転手はどこ?」と真顔で尋ねてしまうくらい、
沁みついたことなのですなあ(普段なら、ショーファーがどこへなりとも連れていってくれたわけで)。
ともすると、「何と世間知らずな」と憤りさえ浮かんできそうな場面は多々あるのですけれど、
このジャッキー夫人というのが、もともとは全くの庶民層で苦労を重ねていたところ、
たまたま?不動産王に見染められたということで、根っからずれずれの感覚の持ち主だったのではないようで。
予て考えてはいたことながら、お金の使い方というのは所得に応じて大きくも小さくもなるのですよね。
「当たり前ではないか」とも思うところでしょうが、実はよく引き合いに出す「足るを知る」ということを考えたときに、
所得が多くなるにつれ「足る」そのものが大きくなってしまうとは言えそうな気がしておりますよ。
映画に見る「爆買い」なども庶民感覚からずれていると言いましたけれど、
段階的に「足る」の度合いが大きくなっているだけといえばだけなのでありましょうなあ。
だからと言って所得は少ない方がいいというつもりはありませんし、
ほどほど(本来、社会主義として目指されるべきレベルかもしれませんが)というのも絶対的な尺度はないわけで、
何につけヒトは「もっともっと」と考えることで、今に至る社会を作り上げてきたのですから、
一概に「もっともっと」を否定もできないでしょう(良い面もあれば、悪い面も多々あるとしても)。
これから先も、どんな方面に関してもヒトは「もっともっと」を追求していくことになりましょうけれど、
ある程度の折り合いが必要だろうということは知っていていいのではなかろうかな…と、
そんなふうにも考えたドキュメンタリー映画なのでありました。