東京ではまた緊急事態宣言ですなあ。
まだまだ多摩ごもりを続けなくてはならんのかと思うわけですが、それでも
多少なりとも近隣に美術館なりなんなりがあるのは幸いなるかなでありましょうか。
ということで、立川にありますたましん美術館、またこちらを訪ねたような次第です。
開催中であったのは「足跡Vol.2~所蔵品と新作から見える多摩の美術~」という展示。
同じ作家の旧来作(所蔵品)と新作とを並べて展示することで、
その作品間にたどったであろう足跡に思いを馳せようてな意味合いがあるかもですね。
館内には造形作品も含めて、ニコイチの形で展示されておりますよ。
旧作と新作とが非常にかけ離れた印象を抱かせるものには、
いったい作家に何があったのか?!と思ったりもするところです。
例えば、このような二つの組み合わせなど。
田中正巳という作家の作品で、左は1989年作「少年の夏」、右は近作という「壊れかけた太陽」と。
具象からだんだんと抽象化を進めていったという背景は詳らかではありませんけれど、
たどり着いた「壊れかけた太陽」というシリーズには人間が自然破壊を進めてしまう危機感が募った先に
太陽までも…の思いがあったのかも。時代とともにある変化なのかもしれません。
こちらは山内和則作の「残された森」(1992年)と「メディシスの泉-秋のリュクさんブール公園-」(2020年)。
前者は象徴主義というか、シュルレアリスムというか、そんな趣を湛えておりますな。
後者は光に溢れた風景画でこれまた両者の開きは大きいですが、
かつては「社会の出来事をどれだけ伝えられるか」と考えていたところ、
やがて視点は「日常の親密的な事象をテーマにする」方向にシフトしてきたようで。
分かりやすいといってはなんですが、こうした方向に移ろうこともあるわけですよね。
と、多くは「こんなに変わりました」的な新旧対比が見られる中で、
ぶれず変わらずと言っていいのか、同一傾向を突き詰めるタイプもありますですね。
柿崎覚という、比較的まだ若い画家であるからか、この2作品は2015年と2020年、
5年の経過ながらいかにも印象派風な風景画に一見したところの違いはないような。
ですが、上の「青い水のある風景」(こちらが旧作)は木立と水辺と映り込みという、
いかにも受けがよさそうな景観を描いておりまして、確かに目を引くものではありますけれど、
下の「ブローニュの小道」の方が(言葉が適当かどうかはともかく)画家として勝負し甲斐がある景色というか、
木立とそこを抜ける一本の道、それだけといえばそれだけのものをどう見せるかをうまく作っているような。
部分的に近接してみますと、筆跡もしっかり残っていて、
印象派、ポスト印象派あたりの「描いてるなあ」という行為も思い浮かぶような作品を見るがごとし。
日本で印象派あたりの展覧会があるとやたらに混んでいたりしますので、
たましん美術館での静かな(つまりはほとんど鑑賞者が他にいない)環境で向き合えることに
海外の美術館を訪ねたような思いが蘇ったりもしたものでありました。
まあ、依然として海外の美術館を訪ねたりすることはまだしばらく出来かねるかもしれませんので、
せめてこうした感覚(錯覚?)だけでも楽しみの要素と思っていいのでありましょう。
近所なだけに、なんともありがたいことです。幸せと思わなくては(笑)。