出奔した妹の子ども・朔と暮らすことになった椿。勉強が苦手で内にこもりがちな、決して“育てやすく”はない朔との生活の中で、椿は彼を無意識に他の子どもと比べていることに気づく。それは、大人としてやってもいいことなのだろうか―大人が言う「良い子」って、何?

 

Amazonにある紹介文によりますと、

寺地はるなの小説『わたしの良い子』の内容はこんなふうであると。

 

確かにタイトルは「わたしの良い子」ですので、子どものことを考えるお話と思えば、

その面はもちろんあるとして、その実、親の側と言いますか、

本作の主人公・椿さんのように甥っ子を育てているといったケースもありますので、

子どもを育てる側のことを考えるお話であるという面に目が向きましたですねえ。

 

そもそも、良い子って何?ということ自体、育てる側の大人目線ですものね。

絶対的な「良い子」像が明らかなわけでもありませんし。

 

保育園の、その後には小学校や塾などを通して、

さまざまな親子関係を見ることになりますけれど、ときに椿さんは

目の当たりにしたような関わり方はできないなと感じたりもする。

 

そこで思うのは「自分は本当の親ではないから…」ということだったりするのですが、

椿さんにそう思わせた場面には、どうも読み手として、第三者として眺めたときに

こりゃあ、椿さんに分があると思えたりもするのですよね。

例えば、塾の自習をする際に、母親がつきっきりで娘を叱咤激励している姿。

ときおり、「なぜ同じ間違いを繰り返すのか」となじったりもしている姿であったり…。

 

さまざまな場面に通底するのは子どもにとって良かれと思う親心なのではありましょうけれど、

そも「子どもにとって良かれ」と考える背景は千差万別。

適っている、適っていないという区分けは一様にはしがたいものの、

それでも時には「違うんでないの」と口出ししたくなることもありましょうなあ。

 

もちろん椿さんが直接的に口出ししたりはしないわけでして、

どうしても折々「本当の親でない」ということが頭をよぎったりするわけです。

 

ここでふと考えることは、子どもを育てるにあたってもっとも親が適しているとは

必ずしも言えないのではなかろうかと。かといって、昨今言われるように

子どもは社会で育てるのだ、ということも一面的に過ぎるのではなかろうかと

思うところではありますが…。

 

子育てに正解は無いでしょうし、かといって失敗とまでは言わずとも、

あのときこうしていれば…みたいな後悔は多々あるところかと想像しますけれど、

このことに本当の親であるか、そうでないかという点で違いはないようにも思うところです。

(そうでない場合が悪く言われるケースが多いとも思いますが)

 

先ほどの塾での叱咤激励は子どもの将来を考えて、

つまりは良い学校に入って良い仕事について、良い生活を送ってほしいと考えているのでしょうか。

されどそもそも「良い子」というのが明らかでないのと同様に、

「良い学校」、「良い仕事」、ひいては「良い生活」とは何ぞ?に正解はないでしょう。

 

同じようにはできないと感じた椿さんは「本当の親でないから…」と考えてしまうわけですが、

本当の親だからこそ親の思いが空回りしてしまうこともありましょうしね…。

 

てな思い巡らしをしているときに、これまで思い出すこともなかったことがひとつ、

記憶の奥底から浮上してきましたですよ。

もうかなり前のことになりますが、群馬県の山奥のスキー場にでかけたとき、

宿泊したペンションのオーナーのお子さんに椿くんという男の子がいたのでして。

 

何のてらいもなく宿泊客と遊んでは大笑いをするようなお子さんでしたけれど、

健やかな「良い子」に思えたものです。都会とは違った環境で、

周りに塾などあろうはずもない中で育っていったものと思いますけれど、

今ではすっかり大人、おっさんになっているであろう椿くん、

どんなふうに成長したのかな…と、ぼんやり思いを馳せたのでありました。