いやはや子役というのは、あっという間に成長してしまいますなあ。

芦田愛菜が小学三年生・こっこを演じたのは2014年の映画だったようで。

それにしても、子供たちがみななかなかに達者なこと。

映画「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」をしみじみ思ったものでありますよ。

 

 

ただ、身体的な成長とはまた別に精神的なといいますか、心持ち、考え方も

よかれ悪しかれ、子どもは大人になっていくのであるなあとも。

 

「素直」という言がありますけれど、意味合いとしては

「聞き分けのよいいい子」といったニュアンスで使われることがあろうかと思いますが、

コトバンクでは語釈の第一義には「飾り気がなくありのままであるさま。素朴。質朴。」とある。

つまり「素のままに直」ということでありましょう。

 

大人になるにつれ、あれこれの物事の蓄積が想像、斟酌、忖度、思いやりなどなどを生み、

素のままであることと社会性とのせめぎ合いを回避していくものと思いますが、

子どもの場合はそうではない。「素のまま」であるわけです。

 

されど子どもと言えども、だんだんと社会性なるものを身に付けていって、

いつしか「全く子どもは何を考えているのだか…」と思う側に回っていきますけれど、

そうした移行には個人差があるわけで、この映画の主人公・こっここと琴子は

ゆっくりゆったり育っているということになりましょうか。

 

こっこは同級生に起こるいろんなことを真似したがるようです。

ものもらいが出来てしまった子が眼帯をしてくると、自分も眼帯をしてみる。

パニック障害的に不整脈が起こり、救急車で運ばれた子を見ると、

自分も胸を押さえて苦しそうにしてみる。そして、吃音の友だちのしゃべり方を真似てみる…。

 

どれも大人ばかりか級友の目で見ても、「まずいんじゃね」という仕儀なわけですが、

こっこに何故真似るのかを問えば、「かっこいいから」となるのですなあ。

自分に無いことを他人に見出すと単純に「かっこいい」と見え、うらやましくなるようで。

 

でも、こうしたふるまいって大人が見たら、否おそらく周りの同級生から見ても

「まずいんじゃね?」と思うところでありましょうなあ。

そこには相手が傷つくのではなかろうか、嫌な思いをするのではなかろうかという

斟酌が働くからでしょうけれど、そのように想像すること自体が大人化なのかもしれません。

 

それに比べると、こっこはシンプルに(冒頭に触れたところで言えば)素直なのかも。

やはり同級生の中に、やたらあだ名をつけたがる男の子がいて、

先にパニック発作を起こした子には「ぱにっくん」というのはどうを持ちかける。

これは本人に「いやだな」と言われて話はおしまいになりましたが、

あだ名の付け方というのも子どものストレートさ、ある意味素直さが剥き出しになる部分ですね。

 

あだ名を付けることも含めて

ときに(大人目線で)残酷とさえ思えるのようなふるまいのある子どもたちですが、

それを訳知りな大人の立場で一刀両断するのはいかがなものかなとも。

ある行為をやってはだめなことという決めつけるだけでは、

途中の「なぜ?」がすっとばされてしまいますものね。

 

その点、こっこにはおじいちゃんが「想像する」ことを教えて導くのですなあ。

「イマジン」という呪文のような言葉を使って。

大人への階段を一段ずつ登っていく中では、そのステップの幅が大きい子も小さい子もいましょうから、

だめなものはだめでは済まないこともありましょう。

 

と、そんな思い巡らしの中で自らのこととして思い出したことがひとつ。

中学へあがる前の春休みに足の手術をして、入学式からしばらく松葉杖で通ったことがありました。

 

初めての面々が集う教室で、足の悪い「かわいそうな子」という目線にさらされたのは事実かと。

こうした大人的斟酌のある一方で、同級生のひとりが近づくて来て、「杖、貸してくれる?」と。

自分に無い(使ったことが無い、差し当たり使う機会があるとも思えない)ものに興味を示して、

松葉杖なるものに触って見たかったのでしょうな、こっこ的な感じ方で。

 

松葉杖は片方のひざを曲げて、さも片足に不具合があるようにするのが使うコツ?ですが、

先の想像で言えば、「本当に足の具合が悪い人は見ていて嫌だろうな」と考えてもしまうところかと。

まあ、松葉杖を借りに来た同級生は、こっこ的感覚が優っていたのでありましょう。

 

当人としては「松葉杖はいっときだけで、ほどなく手放す」ことが分かっておりましたので、

さして何を思うわけでもありませんでしたけれど、確かに眉を顰める向きもあったことでしょう。

 

とまれ、余計な思い出し話はともかくも、こっこは暑いひと夏を経て

大人への階段のちいさなステップを登ったようで(よしあしは別ですが)。

それにしても、こうした成長が得てして夏休みの間として描かれるのは何故なのでしょうなあ…。