以前、「シード 生命の糧」というドキュメンタリー映画を見て、

植物の多様性はどんどん失われているのだなあと思ったわけですが、

とかく動物の絶滅危惧種には関心を示す人も、生命の多様性といったときには当然含まれるであろう植物にまで

なかなか目が向くことはないのかもしれませんですね。

 

それでも樹木にはまだなんとか気にしても、野菜の品種などにまでは気が回らない。

きゅうりはきゅうり、ほうれん草はほうれん草でしょうと。

 

ですが、時折畑仕事の手伝いなどに行きますと、

このタネは枝豆でも何とかという品種であるといったご教示が得られまして、他の作物についてもしかり。

きゅうりはきゅうりでしょうとは、ヒトはヒトでしょうとだけ見ることで、

そこには人種、民族、さらには個性の違いがあることにいっかな目を向けていない。

その一部が消滅してしまっても全く気に掛けないことと同じ…とは言いすぎなのかどうか…。

 

先の映画の中では、多様なタネを集めて保存しているアメリカの方が紹介されていましたけれど、

日本でも「タネの未来」を考えて会社を興した人がいたのですなあ。

書名もそのまま「タネの未来」という本を書いていますけれど、

「僕が15歳でタネの会社を企業したわけ」と添えられておりますように、

起業時は中学生、本を書いた時点で高校生(今は大学生でしょうか)だったとは…。

 

 

元々、小さな頃から植物に興味があったということですけれど、

取り分け野菜に執心することになったのはヒトが口にするものだからでしょうか。

ご本人は数々の食物アレルギーを抱えているとのことで、辛うじて野菜は差しさわりがなかったことから

自ずとその多様性に着目したのでもあるような。

 

それにしてもそんなに野菜の品種は失われているのであるかと、消費者的には思うところですね。

野菜というより特に果物にはどんどん新しい品種名のものが出てきますし。米でもそうかなと。

そう考えると、表立っては出て来ないものの野菜も同じでないのと思ったりするわけです。

 

ですが、これは品種改良の結果であって、これとは別に本来あったものが失われていくということは

確かにあるようです。かつてはたくさんあった地名のついた野菜が栽培されなくなってしまうと言う話は

よく聞くところですしね。

 

地域ごとに特殊性のある品種はそれはそれでレアものかもしれませんけれど、

大量生産、大量流通、大量消費の流れには向かないものであって、

結局のところ経済性の観点から淘汰される結果を招いていもいるような。

つまり、ここでの植物の絶滅危惧もまた人為的なものなのですなあ。

 

ひとつの野菜にもたくさんの品種があると、

ある気候状況に対する強い弱い、ある病気に対する強い弱いなどの違いがあることから、

一定条件での作物の全滅を回避できることになるという利点は、ようやく見直されてきているのかも。

 

これは経済性優先が個性ある作物を味わえなくなったことに対する反動として現れている側面もあり、

またレタス農家といえばレタスだけ、キャベツ農家はキャベツだけといった状況は危うさも伴っていることへの

気付きもあったのではなかろうかと。

 

本来は地場のものですから、地場で受け継がれていけば無くならないわけではありますが、

ほぼほぼ日本中の各地で農家が減っているわけですし、

新たに就農する人がいるとしても各地にまんべんなく入っていっているわけでもないですから、

その場にある伝統野菜はやはり放っておいたら無くなってしまいもするのでありましょう。

 

人間は科学によって新たな品種(品種改良)を生み出していますけれど、

元から自然の中にあった多様性を活かす方向ではなく進んできたことに思いを致す必要はあるかもしれません。

何ごとにつけ科学万能神話がそのまま受け入れられるものではないと、気付いているからにはなおのこと。