さて、先月のEテレ「100分de名著」は「100分de災害を考える」として4冊の本を取り上げておりましたな。

災害との付き合い方?を考えるにあたっては、それぞれの心のもちようというか、心のありようを見つめなおす、

そんなことも必要になるということでしょうか、そっち系統の本が多かったようにも思いますが、

ストレートに響いたのは寺田寅彦の『天災と日本人』だったのではなかろうかと。

 

 

「天災は忘れた頃にやってくる」とはよく耳にする言葉ですけれど、これは寺田寅彦の言と言われますですね。

書かれた言葉として出典がたどれるものではないようで、日ごろから戒めとして弟子たちに語っていたのだとか。

物理学者ではありますけれど、旧制五高時代に影響を受けた夏目漱石の弟子としても知られ、

俳人・随筆家でもあったという寺田らしい、印象に残るひと言ではありましょう。

 

ところで、かつて(場合によっては今も)科学の進歩は人間をよりよい方向にもっていくと信じられていましたが、

科学の限界、必ずしも科学は万能ではないことに着目して、警鐘を鳴らす科学者というのもそう多くはないような。

「文明が発達すればするほど人間社会は災害に弱くなり被害は大きくなる」のであると。

 

ここでの文明は科学技術と置き換えてみれば分かりやすくなりますけれど、

それが発達するほどに災害に弱い社会となるとは、むしろ逆なのではと考えてしまいがちではないですかね。

 

人は大きな災害を経験する中で、例えば氾濫しそうな川は流路を変えることなど、

徳川家康利根川東遷事業を思い浮かべてもかなり昔から行ってきてますですね。

これが明治以降、西洋科学が入ってくると科学の力で自然を制御する、自然をねじ伏せる形が顕著になる。

地盤の弱いところを固め、建物の耐震性能を高め…といった具合に。

 

ですが、利根川東遷事業に対しては田中正造が言っておりますように、川は流れたいように流れているのでして、これを人為的に捻じ曲げるとしわ寄せが生ずるわけですね。

もともと江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川を東遷して銚子に流せば、江戸の水害は減るでしょうけれど、

そのしわ寄せは近年でも鬼怒川の堤防決壊などの形で表れてもいるところかと。

 

田中の見立てと同様の考えをむしろ活かしているのは、

先に読んだ『結ばれたロープ』に描かれたアルプスの山あいの人々でしょうか。

 

観光客として眺める分には緑一色の斜面に山小屋ふうの建物が点在する姿は

「ああ、いい景色」というだけですけれど、この山小屋の点在はちゃあんと雪崩の流れ下る場所を予見し、

これを避けて建てられているのですよね。ここには無理やり人為的に雪崩を止めるとかいうことでなく、

どうしても雪崩は起こるもので、これと共存するための術、どこに家を建ててはいけないかが伝承されていると。

 

古くからの言い伝えを「そんな非科学的な!」と一刀両断に切り捨てがちではありますけれど、

古来の教えに含まれているであろう意図をこそ考えなくてはいけんのかもと思いましたですよ。

もしかすると「風水」なども(個人的にはこれを鵜呑みにするつもりはないものの)気に掛けないと

災いを呼び込んでしまうという、その災いは何も妖しげなものではなくして、自然災害への備えを促しているのかも。

 

ま、科学者である寺田寅彦がそこまで言っているわけではないながら、

ともかく科学によって人間が自然を制御できるかのように思い込むのは危険であると、

科学者でありつつも言い残してくれているということなのですなあ。