映画「岸辺の旅」を見てみたですよ。

第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞した作品というでありますね。

 

 

要するに(と言ってしまってはあまりにざっくりかもですが)死者と生者との交歓を描いているとは、

まあ、よくある類の話であるかと思うわけですが、仏教に擬えれば死後四十九日の死者との関わりを

旅の同行という形で示したてなことにもなりましょうか。

 

いわば三途の川の此岸の岸辺をゆらゆら旅している、

そんなことでもあるような気がしたものでありますよ、タイトル的には。

 

ただ、ストーリー設定としては死者は死者なのかは今ひとつ判然としない上、

戻ってくるのは3年後とはずいぶん長い間あちこちを放浪していたようで。

情感は豊かですので、あまり話の整合性がどうのこうの言うのは的外れにしても、

入り込みにくい人には入りにくい世界でもありましょうね、きっと。

 

それでもカンヌの受賞が物語ってもいるように、すっと受け止めた向きの多かったのでしょうけれど、

そうでありながら個人的には、映画そのものとは関わりないようなところにひっかかりがありましたので、

話は逸れますが、そちらのお話を。

 

死者(と思しき)優介(浅野忠信)が妻の瑞希(深津絵里)を連れて、

不在の3年間を過ごした町々を訪ね歩く中、とある農村では村の人たちに宇宙物理学の講義でも

していたのでしょうか、帰ってきた?優介にさっそくまたご講義を、となるのですな。

その際の講義内容が「アインシュタインは…」といった話なのでして。

 

話の中で「光の質量は0である」ということが出てくるのですね。ひっかかりはこのあたりです。

ここで考えたことは「0」ということは「無」なのであるか?ということなのでありますよ。

 

話の流れとしては「0」と「無」を同じものと捉えていたように思いますけれど、

逆に話を聞いているうちに思い至ったのは「0」と「無」とは同じでないのではなろうかと。

 

「無」は「有」との二項対立が成り立って、「有」ではない「無」は、とにかく何にも無いわけながら、

「0」というのは「…100…10…5、4、3、2、1」と「-1、-2、-3、-4、-5…-10…-100…」とが続く間に

あくまで「0」としてあるのですから。ここでもし「0」は何もないのだとしてしまうと、

数列はプラスの側にもマイナスの側にも、どちらにも連続しようが無くなってしまいますですよね。

 

例えば算数で、「ケーキが5つありました。5人でひとつずつ食べました。残りはいくつですか?」と問われれば、

答えは「0」であって、認識としてはケーキは一つもない、つまりは「無」であると考えてしまいますが、

ケーキは0個「ある」と考えればいいのかもしれません。

 

とまあ、かような思い巡らしは映画そのものとは関わりないようなとは言ったものの、

実は…と思わなくもない。なんとなれば「生」と「死」を考えるときに、

(例えばですが)正の数でカウントダウンするのが「生」の世界であるとすれば、

「死」という地点の向こうには死後の世界という負の数のカウントアップが始まる連続性があるといったふうに。

 

こう考えますと、「生」と「死」はそれこそ二項対立なのではなくして、生の世界と死後の世界との連続性の中に

「死」という「0」が置かれてでもいるかのようです。したがって、「死」は「無」とは異なるとも。

 

もしかすると、この映画の中で優介の講義にはこうした関係を思わせる深謀遠慮があったのか…とまで

言うつもりは毛頭ありませんし、「だから死後の世界はあるのだ」とか「霊魂は不滅だ」とか

スピリチュアルめいたことも言うつもりはありませんですよ。

 

要するに先のケーキの例題ではありませんが、5個あるケーキを5人でひとつずつ食べてしまったら、

残りは無いわけで、「0個ある」というのは概念としてのお話。そも負の数の世界、さらには虚数などにしても

概念としてはとらまえることができても、現実に目の当たりすることはできないですものね。だから概念と。

 

もっとも、目の当たりにできないから「無い」と言い切ることもできないわけで、

空気は見えないから無いとはいえないというようなこともあるにはあるとして、

その微妙なあたりが、この映画の背景になるようなことが繰り返し取り上げられたりするのかも。

 

自ら墓穴を掘るように、怖がりが展開する話ではない領域に踏み込んでしまいましたが、

ともあれ、「0」と「無」はイコールでないという気付きに興味を覚えた「岸辺の旅」なのでありました。