Eテレ「100分de名著」でブルデューの『ディスタンクシオン』が取り上げられていたのは、12月でしたか。
例によって録画を一気に見たのは年末でしたけれど、その後に思うところが頭の中を経巡って、
なかなかに整理がつかずにかなり時間が経ってしまいました…。
時間が経ったことで整理がついたのかといいますと、どうもそうでもないようでして、
思いつくままに書き綴るということにはなりそうですが、まあ取り敢えず。
いろいろと食いつく部分はあるわけですが、差し当たり第1回で触れられていた「ハビトゥス」のあたりから。
ちと番組の紹介文から引用をしてみると、かようなことでして。
階級は経済的な原因から生じるという既存の論に対し、全く新しい観点から「階級社会」を生み出す目に見えない要因に光を当てたブルデュー。そのために編み出した概念が「ハビトゥス」だ。ハビトゥスを一言でいうと、身体に刻み込まれた、行動・知覚・評価の図式。幼少期から、言葉遣い、身のこなし、趣味趣向といった形で家庭の中で植え付けられたハビトゥスは、所属階級の性向が刻印されており、その後の人生の選択に大きな影響を及ぼす。つまり人生のスタート段階から格差の芽が生まれているというのだ。
こうした「ハビトゥス」が前提にもなってしまい、
本来的には等しく教育を授けるという理念の下にあるはずの義務教育、初等教育も
それを受ける段階ですでにして授業の形に馴染むか馴染まないかを傾向が分かれているとか。
つまりは等しく教育を授ける場が格差を助長する装置になってしまっているというのですなあ。
例えばですけれど、自宅に大きな書棚があってあれこれの本がたくさん詰まっていれば、
子どもとしては訳が分からないにしても、こそっとそこから本を引っ張り出しては眺め、
中には読み進めてしまうものがあるかもしれない。
また、自宅にたくさんのレコードがあってさまざまな音楽が聴けるとなれば、
何らか取り出して聴いてみることがあるかもしれない。
こうした「読む」とか「聴く」とかいうことは、ともすると集中力の涵養に繋がり、
それが事前に養われているかどうかが、学校で授業を受ける姿勢に関わってもくるという。
しかも、このことは「読む」「聴く」などを親がそうしなさいと意図せざるとも、
読むもの、聴くものがあるという環境そのものが作り出した効果でもあるようなのですなあ。
と、こうしたことを聞かされるにつけ、個人的には頭の整理がつかず…ということになったのでありますよ。
何せ、子どもの頃の自宅には(といって、今も両親のところは変わりはありませんですが)
上の例えに擬えれば、本も無ければレコードも無い家だったわけでして。
となりますと環境に影響されることがなかったのかとも思ってしまうところながら、さにあらず。
時折、妙に古い歌謡曲の話やらを持ち出してくるのは幼い頃からの「懐メロ」 番組の刷り込みかと(笑)。
ちょいと前に触れましたように、毎年決まって初詣に出かけていた家の子どもは
大人になって家族の下を離れても習慣的に出かけているかもしれませんし、
はたまた親子そろって競馬好きとか、家族ともども巨人ファンとか、そういう影響というのは
おそらく枚挙に遑がないことでありましょう。
しかしながら、考えてみるに個人的には親の趣味嗜好をそのままに引き継いでいるとは
とても思えないのですなあ。そのことが番組を見ていて戸惑いしたところなのでありますよ。
家庭環境の呪縛?から逃れる手立てはないのでしょうかね。
小さな子供への一定刷り込みはもはや本人にいかんともしがたいところながら、
ある程度自覚的に動きがとれるようになってからは興味のままに赴くことは不可能ではない。
ですが、ブルデューの言っていることはその「興味」の引き出しがそもそも無いということでしょう。
では、そうでありながら興味が喚起されるには、単にそのものごとへの興味というトリガー以前に、
環境の呪縛から逃れたいというような要素が根っこにあったのか…とも思ったり。
と、いささか個人的な話ばかりで長くなり「ハビトゥス」以外のことに触れる余地がなくなってしまいましたが、
個人的なことはともかくも、先に触れたあたりに立ち返ってみますれば、
教育関係者が「いい装置」と考えていたものが実はそうではなさそう…と、
ブルデューが気付きを与えてから40年ほどは経って、教育現場はいくらか変わっているのでしょうか…。
かつて放送大学で少しばかり教育学関係の講座を受講していたことがありますけれど、
古くから教授法なるものも変化してきていることを知りました。そうしたことから考えても、
今ある形が常に最善であるとは限らないという前提で、試行錯誤はこの後も続くことでしょう。
いっとき「ゆとり教育」なるものが行われた時期がありましたけれど、
「円周率は3」として計算した世代のその後はどうなっておりましょうねえ。
失敗と思えば撤回するにやぶさかではないものの、「ゆとり」の実態もマスな教育であったわけで、
そもブルデューの言うように就学前にすでに違いが生じているのならなおのこと、
マスプロではない個別の教育にならざるを得ないような気もしたりしておりますよ。