新潟一ののっぽビルを訪ねた後は、2番目に高いビルになりましょうか、新潟日報メディアシップへ。

かつて立ち寄ったこともありましたように、こちらのビルの中には「にいがた文化の記憶館」がありまして、

企画展「相馬御風のうたのこころ」が開催中だったものですから。

 

 

といって、相馬御風という歌人・作詞家のことをそうそう知っているわけでもなく、

数年前、フォッサマグナミュージアムを覗くために新潟県糸魚川市に赴いた際、

糸魚川駅日本海口に相馬御風の歌碑と解説板が置かれてあり、

「そういえばこういう人いたなあ」と記憶にとどまったような次第です。

 

 

糸魚川駅前の歌碑は「ふるさと」という、御風の故郷・糸魚川を想って作ったもので

郷土としてこれを選択するのは当然ながら、世間的には「で、御風とは?」となるところかも。

必ずしも、一般的な認知度は高くないとしても、早稲田大学校歌「都の西北」、童謡「春よ来い」の

歌詞を書いた人といえば、なんとなく「そうか」となるのではと思うところかと。

 

そして、広くあまねく知られた歌詞が多くはないのに、相馬御風の名を知っている(気がする?)人が多かろうのは

早稲田の校歌のみならず、日大の校歌も、武蔵工業大学(現在は東京都市大学)の校歌にも歌詞を提供し、

全国の高等学校の分まで入れると実にたくさんの校歌作りに携わっている、その数200以上とか。

あたかも作詞界の古関裕而とも言えようかと。
 

糸魚川に生まれ、11歳で和歌作りを始めた御風少年は詩作の世界に深く関心をもちますけれど、

明治の若者らしく旧制三高(現在は京都大学)を目指し、やがて帝大を経て末は博士か大臣かへの道を…

とそこまで考えていたかは分かりませんが、あいにくと三高の受験に失敗してしまうのですなあ。

 

やむなく?東京専門学校(卒業するころには早稲田大学に名前が変わっていた)に入るわけですが、

同期生には會津八一がおり、また坪内逍遥、島村抱月の薫陶を受けたとなりますと、

反って三高に落ちたことが幸いしたのではなかろうかとも(三高に行っていたらどうだったかは詮無い話で…)。

 

母校・校歌の作詞の話が卒業して間もない若干24歳の御風のもとに持ち込まれるのは

もっぱら恩師・島村抱月の推薦にもよったということでありますよ。

詩作の方面で大いに将来を嘱望される存在であったのでしょう。

 

同じ明治40年(1907年)には三木露風、野口雨情らと「早稲田新詩社」を結成、

その名から、新詩社、与謝野鉄幹、雑誌「明星」とのつながりが想像されるところですけれど、

御風はすでに18歳のときに新詩社に入会、「明星」には自作の歌が掲載されたりもしていたという。

 

ですが、抱月との関わり深さがやがて御風を逡巡させることに。

元々、抱月は坪内逍遥と文学での同志であって、その両者に御風は学んだわけですが、

抱月は松井須磨子とのスキャンダルから逍遥とぎくしゃくするところとなり、

抱月らが独自に芸術座を旗揚げする際、御風は逍遥と抱月、どちらにも離れがたい気持ちを持ちながらも

結局は芸術座に参加することにするのでありますよ。

 

こうした人間関係に絡む葛藤が御風を疲弊させてしまい、郷里・糸魚川へと連れ戻すことになりますな。

時に大正5年(1916年)、志高く三木露風、野口雨情らと集ってからの10年は

御風にとっては激動の年月だったのでしょうなあ。

大ぞらを静にしろき雲はゆく しづかにわれも生くべくありけり

糸魚川に戻ってから詠んだこの歌にはおだやかな心で空を眺めやる御風の姿とともに、

いささか諦観のような内心を想像してしまうところですけれど、これを詠んだのはまだ40歳のとき。

糸魚川を離れることなく、晩年は後進の指導と、新潟の大先輩歌人である良寛さんの研究に邁進しながら、

忙しくも心おだやかな日々を送ったのでもありましょうか。

 

確かにここに名前を出した坪内逍遥、島村抱月、与謝野鉄幹、三木露風、野口雨情…といった人々に比べ

相馬御風の名は知られていない気もしますが、だからといって御風に日々の幸せが無かったわけではないと

思ったりするのでありました。