出歩くことが少ないと、あれこれ考えることが多くなりますかね(ドイツ人のように内省的に?)。

とっかかりはどこにもあって雑多なあれこれですけれど…。

 

さすが年が明けて半月も経ちますので、アメブロのおみくじもいつの間にか見かけなくなりました。

完全にシステマチックに結果が示されると分かっていても、そこに疑問をさしはさむことなく、

「吉だ、凶だ」と一喜一憂してしまうのはなぜなんだかなあと思ったりするところです。

 

こちらはギャンブルになるので比べるのはいかがなものか…ではありますけれど、

でもまあ、スロットマシンをやるのとおんなじ感覚なのかなあとも。

 

裏では機械が動かしていることは予め知っているのに、いい目がでないと何度もやってしまい、

その挙句に「ついてないな。運がないのかな…」てなことを思ったりする。

 

相手は機械なのですから、「運」も「ツキ」も関係無いはずですし、

そもそも「運」とか「ツキ」とかいうものが本当にあるのか(無いような気がしますが)、

そういう人知の及ばぬところに話を持って行きたくなるのが、人間なのでありましょうか。

神さまのご託宣の要素が全く無いであろうももの、おみくじと認めてしまったりするのですから。

 

そんなところから(この間、初詣のお話などもしましたけれど)思いが飛躍した先は

「神頼み」ということなのでありました。

 

初詣に限らず、「家内安全」とか「商売繁盛」とか、

さらに具体的には「志望校合格」などといったことを神仏に祈願することはしばしあることですけれど、

本気で神さま仏さまに叶えてもらえるとはおそらく考えていないですよね。

祈願することで、ちと落ち着くと言いますか、そういうことはあるかもしれませんけれど。

 

では、あの祈願の行為というのはいったい何のためにあるのでしょう…。

実のところは「決意表明」のようなものなのかもしれんなあと思うのでありますよ。

例えば「東大合格!」とかいうことをおおっぴらに人前で公言することは

(なにせ失敗の可能性もあるわけですから)憚られるとしても、神さま仏さまという第三者(?)に告げる、

このことがそのゴールに向かって努力する自分を作るとでもいいましょうか。

 

いくら天神様に合格祈願をしたからといって、あとは遊んで暮らしつつ試験に臨む人もいないでしょうから、

結局のところ、努力はもっぱら自らがするわけで、それなら祈願しなくても同じじゃないなかとなります。

ですが、「神さまに言ってしまったし…」となると、遊んでばかりいては心苦しい。

そうした気分に持って行くためのものなのではないですかね。

 

結局のところ「商売繁盛」も同じ。祈願したから、何もしなくてもわんさかお客が来るとは思っていない。

それなりになにくれを集客に思い巡らし実行してこそでして、背景には「神様にもお願いしたし…」と。

「家内安全」もまた、それが実現するように願っているからこその祈願なれば、

神様にお願いした以上は日ごろから気に掛けて家内安全に努めもし、

それゆえ結果的に「ああ、今年の家内安全」だったなあと年末に思ったりすることになるのではなかろうかと。

 

つまりは結局のところ、こういってはなんですが自らの心掛けに後押しを求めるのが祈願でありましょうか。

他力本願という言葉がありますけれど、祈願したからといって何かしら他の力が働くものではなくして、

自らの中にあるものに対する働きかけなのでもありましょうかね。