どうやら今度は「日中も出歩かないように」といったお達しが出てもいるようですが、

コロナ対策とは別の体調管理の点では、あまり人とすれ違うこともない近隣散歩くらいは

やむを得ないところかと。

 

ただ、「やむを得ない」範囲は個々人によって大きく差がでましょうし、

理由はどうあれ、出歩いている人がある程度いれば「そんなら、私も…」ということにもなりかねない。

 

せめてもの自律的な制限として、電車に乗ってまではでかけないようにはしてますが、

それとて歩いているその場を見とがめられれば、電車に乗ってきてのかどうかまでは

他の目には分からないことなのですけれどね…。

 

悩ましいところではありますけれど、このほどは近隣である立川市の健康づくりウォーキングマップの

Aコースを(多少端折って)ひと回りしてきたのでありました。

 

 

発着点は立川市の柴崎体育館というところ。自宅からここまでは自転車で移動いたしました。

まあ、市民体育館はどうでもいいのですけれど、その前にあるオブジェに目が向いたのですな。

 

 

「これって、たましん歴史・美術館で見たのと似ているなあ…」と思いましたら、

やはり作者が同じ。江口週という彫刻家の作品でして、タイトルは「ふたたび翔べるか-柱上の鳥」と。

先にたましん(多摩信用金庫)で見ていただけに、スムーズに「鳥」と気付くことができましたですよ。

 

と、ここをスタートして甲州街道を越えるとほどなく多摩川に行き当たるのですけれど、

その手前にうっかりすると見過ごす感じてありましたのが、今度はかようなオブジェでありまして。

 

 

傍らには「日野の渡し場」とありますから、多摩川を越すための渡船場だったのでしょう。

碑に乗っかった船から想像するに、縄文とや弥生とかひどく古い時代にも思えますなあ。

出来た年代ははっきりとは分からないものの、江戸時代、貞享年間(1684~1688)にはあったと。

しかしそれにしては、この船、まるで葦船のように見えるのですが…。

 

台座部分には「かつて信濃甲斐相模への人々はこの渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い

江戸に向かう人々は江戸に着いたと思ったという」と書かれてはいるものの、脇に立つ歌碑に

「多摩川の渡し跡なるわが住まひ河童ども招びて酒酌まむかな」と詠み人未詳の一首が刻まれておりまして、

江戸時代にここが「ああ、江戸に着いた」と思わせる場所だったというよりは

河童と酒酌み交わす雰囲気が似合う場所だったように想像できますなあ。

 

 

とまあ、かような渡船場跡から多摩川の土手に上がりますと、今では渡し船の代わりに橋が渡され、

その上を多摩都市モノレールが行き来している風景となります。

ちょうど二つの橋桁の間に富士のお山が見えておりますが、なんだか薄目を開けて眺める富士のような…。

 

 

ちなみにここの橋は立川市と日野市を結んでいるので「立日橋」と言いますが、

これまでてっきり「たちひばし」と読むのだとばかり思っていたところ「たっぴばし」が正しいようで。

「今では渡し船の代わりに…」と言いましたけれど、実は1989年(平成元年)に出来た比較的新しい橋で、

少し下流に架かる日野橋(1926年に架橋・一昨年の台風で長らく通行できなくなった)の方が

渡し船の代わりになったようですね。

 

 

さて、ほどなくしてコースは多摩川へと流れ込む残堀川沿いをたどることになります。

これを見る限りでは水は流れているの?と思うところですが、わずかな水流のわりには

深く掘り込まれた護岸がばっちり固めてありまして、いざ大水となればここを排水溝のようにして

濁流が流れ下るのでもありましょうかね。今はシラサギがのんびりひなたぼっこですけれど。

 

 

と、この残堀川の左岸は段丘崖の高台になっておりまして、

折り返して昇る石段の上にはこのあたりにしては大きなお寺さんがあるのですね。

 

 

玄武山普済寺という臨済宗建長寺派のお寺ですけれど、この巨大な石燈籠には驚かされますなあ。

建長寺派ということで鎌倉との関わりを思うところでして、どうやらお寺の敷地はかつてここらあたりを治めた

豪族の館があった場所であるということで。

 

日本の歴史では、鎌倉に幕府が作られはするものの、近世になるまで関東が注目されることはなく、

そのせいで関東の歴史は地方史以外のなにものでもないことになりますですね。

 

ですが、平安の終わりから鎌倉、室町と武士の時代には東国に「武蔵七党」という武士集団がおりまして、

ここを治めた立川氏もその一派であるそうな。

高台にあって見晴らしのいい場所、後の山城の発想でもありましょうか。

 

 

妙にかわいらしいお釈迦さま生誕の像(天上天下を指さしてますなあ)を境内に見て普済寺を離れますと、

再び下って今度は根川に出ます。ここは段丘崖からの湧き水による清流なのでありますよ。

 

 

1933年(昭和8年)、「ホトトギス」の吟行句会で普済寺を訪れた俳人の中村草田男は

根川の清流を見て、「冬の水 一枝の影も 欺かず」と詠んだそうな。

澄んだ水面には木々が映り込んでいるも、一枝たりとも余さずに水鏡は欺くところがないと。

澄んだ水には魚住まずともいいますが、うららかな日差しを浴びて鯉や小魚がゆうゆう泳いでおりましたよ。

 

 

たぶんこの程度の近隣散歩がせめてもの気分転換、体調管理というのがしばらく続きましょうか。

そんな状況が続かないためにも、多少の密集などを見て他の人がやっているから自分くらい…と考えたりすることは

それこそ求められずとも自粛しなければならないのでありましょう。