これまた年末のTV番組ですが、NHK「歴史発掘ミステリー 京都 千年蔵 大原 勝林院」を見ておりまして、

「ああ、こんな調査から歴史認識が変わったりもするのかな…」と思ったりするものでありますよ。

 

京都には、はっきり言って中学・高校2度の修学旅行で行ったきりでして、土地勘もなにもないものですから、

番組を見ていて大原という場所はああいうところにあったのかと気付かされたような次第。

北国街道をたどって米やら鯖やらを京の都に運ぶ際に、その入り口を扼する要衝の地であったと。

 

そんな土地を誰が勢力下に収めていたのかを探る手掛かりともなる書状が発見されたということなのですな。

大原の古刹・勝林院の寺領を安堵すると、織田信長から京都支配を任された明智光秀がお墨付きを与える、

これはあるとして、明智の書状のちょいと前、浅井長政が同様のお墨付きを勝林院に与えていたとなりますと、

浅井氏(その後ろには朝倉氏)が信長の首根っこを押さえている恰好となって、有名な比叡山焼き討ちは

信長にとってやむにやまれぬ対応策であったもなってくる…てなことでありまして。

 

とまあ、戦国時代を振り返るときには、とかくどの大名の勢力がどうだとか、合戦でどうなったとか、

城は、大名の人柄は、配下にはどんな武将がいてとか、そうしたところにばかり目が向きがちになるわけですが、

そのことは戦国時代を背景にしたゲームが出てくることなどからも想像できるところでありますね。

 

ですが、歴史に、こと戦国時代にそうした部分での興味を持つ風潮に対して

きっと忸怩たる思いを抱き続けていたのでしょう、歴史学者で長野県立歴史館館長である著者に

『戦国時代は何を残したのか』を書かせることになった由縁であろうかと。

 

 

戦国時代、その激動に巻き込まれたたくさんの庶民たちがいたこと、

彼らは文書も残さず、直接に語り伝えることもありませんけれど、間違いなくそこにいたのですよね。

言ってみれば、現在にもたくさんの庶民がいるように。

 

ともすると彼らは戦乱で家を失くし、田畑は失われ、家族とも離れ離れになり…。

だからこそ、そうしたようすをも目の当たりにした明智光秀が「麒麟がくる」世にしようと

悪戦苦闘を繰り返しているのではないか、そんな姿が「大河ドラマ」で描かれているではないか、

てなふうに考えたりしますと、本書の著者からは一喝を浴びることになりましょうかね。

「大河ドラマ」などを見て、それが史実だったかと思い込むような受け止め方に対して。

 

本書は学術書ではありませんので、細かな論証がなされしませんけれど、

そんな体裁が読みやすいのは事実でして、その読みやすさの中に、

当時の世に生きた庶民たちの姿が浮かび上がってきますですね。

そして、戦国時代はそれまでの世とは画期をなす考え方の転換もあったのだと。

 

天地のこと、天候や地形などは神々が差配する領域であって、

例えば毎年のように水害が起こることは(天が決めたことで)仕方がないといった意識があったところへ、

人工的に手を加えることで自然災害をねじ伏せるような方向が出てきたのが戦国時代であったとか。

 

甲斐の「信玄堤」といった土木工事が有名ですけれど、

それは庶民ではなく戦国大名たる武田信玄のやったことではあるものの、

大規模工事を行った結果として、神仏の祟りもなく、洪水が緩和されたということになれば、

庶民層の考え方もまあ、変わっていきますなあ。例えばとして。

 

この(戦国時代が残したもの発想転換ひとつであろう)発想転換の延長上に現在があるわけでして、

自然に対する挑戦は相変わらず続いている。ですが、誰もが気付いているように

自然をねじ伏せようとすることにも限界はありましょう。地球自体が持たないのではと思われるほどに。

 

とどのつまり、著者はこのことを言いたいがために本書に手を染めたのであろうあと思えるのですな。

戦国時代の話はもちろん関わりあることながら、最後の最後にもってくるための下話でもあって。

 

「大河ドラマ」や数々の小説は当然にして歴史に虚構を持ち込んでいるわけですが、

そうしたところを丸々本当のことであったと受け止めてしまうことがどれほどあるのかは想像がつかないものの、

批判的な視線をもって、根っこを深く見るような臨み方、それが今を生きる者にとっても

さまざまに考えをめぐらす点で意味があるような歴史の学び方でありましょうか。

そんなことをあらためて考えたものなのでありました。