三鷹市美術ギャラリー内にできた太宰治展示室は「三鷹の此の小さい家」の再現であったから思い出した…

というわけではないのですけれど、映画化もされた小説『小さいおうち』の作者・中島京子の本を

近所の図書館の新着図書コーナーで見かけたものですから、ちと借りてみたという次第でして。

 

あまり作家で本を追いかけることのない性格(単に興味対象が散漫なだけかも)ですが、

わりと読んでいる方ではないですかね、中島京子作品は。

 

第一作『FUTON』にくくっと来るところがあってその後も何作か読んでみたところ、

その当時は作家名でネット検索をかけると、同姓同名の?グラビアアイドルだかがヒットして面食らったものながら、

今ではすっかりジャストヒットするのですから、「小さなおうち」ブレイクだったのでもありましょうかね。


 

 

ともあれ、そんな作家の作品で久しぶりに手にとったのは『樽とタタン』という連作短編集。

最後の一篇で触れられ、巻末の解説にもありましたけれど、「タルト・タタン」という洋菓子があるそうですな。

 

知っている方はすぐに結び付くのでしょうけれど、連作の舞台は喫茶店、

ケーキくらいは出てきそうな雰囲気ではあるものの、それこそかつての「学生街の喫茶店」ではありませんが、

武骨なマスターが作る唯一の甘いものはどうやらフレンチトーストだけであるようす。

 

1964年生まれの作者が小学校時分のことを振り返りつつ描き出す喫茶店が舞台となって、

「ああ、昔似たようなことを考えたなあ…」と思い出したりもする、昭和な物語なのでありましたよ。

 

それぞれの話に大きな起伏もないことから、年代によっては、あるいは人によってはでしょうか、

「なに、これ?」という物語かもしれませんが(確かにそうしたレビューも見かけました)、

個人的にはとてもフィットするところがあったのですなあ。例えば、こんなところです。

小学校も低学年のころは、ぬいぐるみもよく口をきいたし、赤ん坊とも話ができたし、部屋の隅からこの世ならぬものが出てくる気配などもあったものだったが、そういうのは成長するにつれて少なくなってくる。
もちろん、大人になってからでも、ぬいぐるみは頼めばしゃべってくれるけれども、それはほんとうにぬいぐるみ本人が語っているのか、こちらが無理やり語らせているのかの区別が曖昧だ。赤ん坊がなにを言いたいのかさっぱりわからなくなってしまうし、壁のシミが顔のかたちに変形して語りかけてくるようなことがあれば、病院に行って薬でももらったほうがいいような気がしてくる。

肝心な喫茶店にまつわる部分ではないのはご容赦願うとしても、

ここらへんの語り口が読み手にとってどう沁み込んでくるかによってフィット感を得たり、

はたまた「なに、これ?」と思うところでもあるのでしょうなあ。

でも、この読み手の懐を探るようなところが、大げさにいえば「文学」なのだろうと思うのでありますよ。

 

まあ、そんな大げさな話にしなくとも、昭和な喫茶店に出入りする顔ぶれのいかにも「いたなあ」という感覚。

取り分け「町内会の草野球チーム」なる一篇に登場する「学生さん」は時代の反映そのものだなあと思えたものです。

その学生さんが主人公の女の子にいささか激して語る場面、というよりもはや独白に近いですが、

長くはなるものの引いておこうかと。具合を悪くしていた女の子を喫茶店に連れてきてやるところです。

人助けをするのが嫌というんじゃなくてね、人助けをしているところを人に見られるのが嫌なんだ。きみだから困るというのでもないんだ。そこのところは誤解しないようにしてください。僕が人助けをするような人間だと思われるのが気恥ずかしい。僕のような人間が人助けをするとは思わなかったと、だいたいそういうふうに人は思うだろうからね。そして僕をそこから評価しようとする。幼い子供を助けたりするのは、やはり非常に人々の心に印象を深くするから、そのことが僕という人間の決定的な評価になってしまいがちです。そこのところが耐えられない。そこのところが許せない。なぜかと言うと、僕はそんなふうにみんなに思われるような人間ではないんだ。僕の中のこの黒い、暗い、おもに社会を形成する人々から隔絶したところ、強いていえば心の底に巣くう闇のようなものばかりにすうっとひきつけられていく、そうした僕という人間の習性というか、本質というか、そういうものが、たとえばこうして、きみを負ぶって喫茶店に行ったというだけで、まさに漂白剤で洗われたように隠されてしまうことの欺瞞に僕は耐えることができないんだ。

かつて「学生」と言われる年代にはこうした側面が確かにあったと思うのは年代的な近しさの故かもですが、

これはこれでひとつの時代の空気が現れていると思うのですね。いわゆる戦後世代ならぬ、学生運動後世代的な。

 

一方で心理描写としても、語り手たる「学生くん」の心情がよおく伝わる語り口にもなっているような。

小説の表現として「大したものだなあ」と思いましたですよ。

 

ところでついでに言いますと、タイトルにあるタタンというのは全体を通しての語り手である小学生の女の子に

喫茶店で付けられたあだ名なのですよね。タタンは人見知りで学校にも馴染めず、

喫茶店に置かれた大きなコーヒー豆の空き樽の中が隠れ家のような居場所となっているので「樽とタタン」。

 

先にも触れたようにフランスのお菓子との結びつきなわけですが、実のところはこの女の子に付いた呼び名は

「たったん」では無かったかなあと思うのですよね。昔は子供にこうした呼び方、よくしていたではありませんか。