小説にも映画にもでしょうけれど、「歴史改変SF」なるジャンルがあるのだそうですなあ。

言葉としては初めて知ったのですけれど、Wikipediaに一項立っているということは

それなりに使われている言葉でもあるのでしょう。「歴史にもしもはない」とはよく言われるところながら、

要するに、歴史にもしもを持ち込んで話を展開させる類いということになりますかね。

 

とまあ、藪から棒にこのような話になりましたのは、

たまたまそれに類する(ような)映画とドラマを見たことによるのでありまして。

ひとつは映画「イエスタデイ」です。

 

フライヤーの惹句には「昨日まで、世界中の誰もが知っていたビートルズ。今日、僕以外の誰も知らない-。」と。

つまりは「もしも自分以外の誰もビートルズを知らなかったら…」というお話で、

まあ、これは歴史改変と言っては大げさになってしまいましょう、単純にファンタジー的に受け止めればいいのかもです。

 

ましては歴史改変「SF」とまで言うには、「SF」には「本当かどうか」はともかくも、

「なぜそれがそうなるのか」ということについて、もっともらしい(ある程度までは根拠のある?)説明があるものと

思えたりするからなのですね。もっとも映画では見てもSF小説になかなか手が出ないのは、

どうもその説明に煙に巻かれるところがありますのでね。

 

映画ではその辺結構さらっと行っても突っ込みを入れるでなく、例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でさえ

タイムトラベルを可能にするにあたってはそれなりに説明があったように思いますが、

ものの見事に、その辺、スルー気味かと(笑)。

 

とまれ「イエスタデイ」は、自分以外に誰もビートルズを知らない世界、

当然にそのヒット曲の数々も知らないという世界の物語になっておりますので、

主人公ジャックは本来はビートルズの作品である曲を次々と世に送り出し、一大スターになっていくのですなあ。

 

ところが、ジャック以外は誰もしらないはず?のビートルズ・メロディーに対して

微妙に反応する人たちがちらほらと現れる。はっきり言って盗作だという認識のあるジャックは、

ことが露見してしまうのではないかと戦々恐々となるも、掛けられた言葉は

「このメロディーを残してくれて、ありがとう」てなものだったのですなあ。

ビートルズ・メロディーの無い世界なんてと、むしろジャックに感謝していたという。

 

「No Beatles, No Life」というところから思い巡らしますと、結局は「No Music, No Life」、

ビートルズというのは例示なのだなと思ったりするのですね。誰にも何かしら大事な「音楽」があって、

それが無いことなど想像できない…でも、それが無くなってしまったらと想像させるわけで。

 

全く無くなってはいませんが、ある種、音楽への枯渇感が生じている昨今かと。

当たり前のようにあるものが無くなってしまったら…その意味での「もしも」であったのですなあ。

 

ということで、これはやはりファンタジーと見るべきなのでしょうけれど、

もう一作の方はもっと深刻なのですよねえ。BBCのドラマ「SS-GB」、

日本では放送にあたり「ナチスが戦争に勝利した世界」という副題が添えられていましたですよ。

 

 

1940年、イギリス侵攻を目指したナチスドイツは上陸作戦の前に海峡の制空権を握るべく航空作戦を展開したのですな。

これを迎え撃つ英空軍は背水の陣の思いで必死の抵抗、「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる戦いになるわけですが、

これは「空軍大戦略」という映画にもなりましたなあ。結局ドイツは所期の目的を達することができず仕舞い、

イギリスへの侵攻を見送る代わりに独ソ戦へと向かっていくことになった…というのが歴史の流れでありますね。

 

ドラマの設定は、もしも「バトル・オブ・ブリテン」で独軍が勝利していたら…という仮定になっておるのでして、

「バトル・オブ・ブリテン」の翌1941年の世界(もっぱらイギリスですが)が描かれているという。

イギリスを制してヒトラーもいくらか満足したのか、独ソ不可侵条約は生きており、独ソ戦は起こっていない。

アメリカも中立を保ったまま、参戦していない状況の中で、なんとか世界のバランスは保たれているふうでもあるような。

 

ですが、小さな穴から水がもれれば大きな堤防を決壊させかねないといった危うさを常にはらんでもおりまして、

ナチス親衛隊(SS)が軍政を布く英国(GB)ではあちらこちらで小さな穴ができかかっているようすが見られるわけです。

 

と、そんな状況を作り出して、果たして原作者のレン・デイトンは何を書きたかったのであろうかなと考えたのですが、

やはり「こうならなくてよかったね」ということでもあろうかと思ったり。もちろん、歴史はナチスをイギリスに上陸させず、

ドラマが描くような世界には至りませんでしたので、それでいいではないかとも思うところながら、そうはならなかったからこそ、

ドラマのような世界でない現実をあたかも「当たり前」のように考えてしまうかもしれないところを

その「当たり前」のありがたさに思いを馳せることも必要なのではないかいね…と(レン・デイトンが考えたかは分かりませんが)

言っているような気もしたのでありますよ。

 

もちろん、ここでの「もしも」とは違う歴史の流れに乗ってある今が果たして手放しで褒められる状況かといえば

(それは何もイギリスに限らずですが)微妙なところがありますけれど、そんなことを思うにつけ、

「歴史にもしもはない」ながら、それでも「もしも」を想像してみることは、なににつけあるうべきことなのではと思ったり。

 

そう考えると、とかく荒唐無稽と切り捨てそうにもなる「歴史改変」の物語には(場合によってでもありましょうけれど)

汲み取るべきものが含まれていることもあろうかと考えたものなのでありますよ。